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正義の味方という看板について

 今と違って昔は、テレビ番組のヒーローは、必ず「正義の味方」を連呼して悪と戦うシーンが多かった気がする。

 自分自身を「正義の味方」などというと、現在ではどこかうさん臭いものを感じたりするが、悪を滅ぼす正義の味方のヒーロー番組などではわかりやすい勧善懲悪の趣旨で善と悪の区分けがされていたのである。

 正義の味方は、コスプレもきらびやかで格好いい外形をし、悪役はたいていブラックやダークグレイの外観的にも悪者というイメージを装っていた。

 見ただけで、どちらが正義の味方か悪人かが子供にも理解できたのである。

 だからこそ、善が悪を懲らしめることによって見るものにカタルシス、爽快感を与え、正義という御旗を掲げて悪を懲らしめるのはいいことだという考え方がそこから生まれてくるのである。

 それ自体はそれほど問題ではないが、そのイメージによって、考え方が極端になりやすいという弊害があることを知らなければならない。

 それが極端になってくると、正義のために悪人を倒して殺してもゆるされるという一種の正義ファシズムになっていく。

 これはテレビのエンターテインメントであるために、その場かぎりの印象に終わってしまうものと言い切れないものがある。

 なぜなら、そこで植え付けられたイメージは、深層心理にまで影を落としていることは間違いないからだ。

 そのイメージが物事を判断するにあたり、善か悪かというような二元論的な思考を生み、自分が正しければ、相手は悪に違いないという思い込みを生む。

 善と悪という考え方が悪いのではなく、絶対的な価値基準がないにもかかわらず、恣意的にこれが善であり、それが悪であるという分け方をする判断がおかしいのである。

 善と悪という問題が、自己判断の基準になれば、どうしても自己を肯定して相手を否定するという心理を増長する。

 正義意識の価値判断は自分であり、そして、それが正しいと思い込む。

 善のヒーローが悪を滅ぼす二元論的な考えの影響がそこにはある。

 そのような正義意識によって、さまざまな問題が発生していることは見逃されやすいのである。

 騒音やごみ問題など身近な事件、隣人訴訟なども、それぞれの言い分正義があり、それが拡大されると、社会正義というような次元まで発展する。

 その背景にあるのは、二元論的な思考であるといっていいのではないか。

 いい例というか悪い例になるのが、今大きな問題になっているイジメだろう。

 学校におけるイジメは、イジメる方が悪であるが、それを無意識に傍観することによって加害者に加担している第三者の無自覚な肯定があるといっていい。

 イジメる側は、それが悪いことだと自覚していれば、それを止めざるを得ないが、そうなってはいない。

 無意識なオーデエンス、同級生や教師がまさに、第三者の立場で、それを見逃しているのである。

 むろん、イジメる側のパワハラといった圧力も背景にあることは言うまでもない。

 正義の判定の背景をなすのは、社会の常識や法律、そして道徳などの倫理意識、そして自己肯定などがある。

 それから逸脱すれば、悪ということになるのだろうが、その成立を支えているのが、まさに大衆、マスというあやふやな存在である。

 民主主義の多数決は、ギリシャのアテネのような直接民主主義から発展したが、その都市国家でも多数による選挙の過ち、デマゴーグが生まれている事実がある。

 古代の直接民主主義では人々の噂や意図的な扇動によって、政敵の評判を落とす材料ととして利用された。

 のみならず、事実無根な情報を流すことによって、政敵を葬り去ったのである。

 相手を善であるよりも悪だというレッテルをうまく張り付けられれば、そのイメージによって多くの人は悪という判断をしてしまう。

 外観だけで、その本質を見ることなく、悪とみなしてしまうのである。

 現在では、その役割を果たしているのが、マスメディアということになるだろう。

 事実を伝えるというよりも、メディアの恣意的な善と悪というイメージで相手を断罪する姿勢には、自分が正しく相手が悪いという二元論的な見方しかない。

 外観を悪にするか、善にするか、その判断基準をマスメディアがするようになったわけである。

 こうした二元論的な考え方、善と悪の対峙はわかりやすいのだが、逆に真実を見誤らせてしまう恐れがあることは言うまでもない。

 すなわち、この世界と社会を見たとき、そう簡単にどちらが善でどちらが悪なのか、という判断が難しい場合がある。

 絶対的な基準、日本であれ、どの国であれ、絶対的な価値基準があって、そこから善と悪を分別できればいいのだが、それができるケースとできないケースがある。

 国際的な政治紛争も、ある意味では、当事者の国同士には、それぞれの正義があり、それが国家の利害と関係しているために、なかなか難しい。

 善あるか、悪であるか、というのは絶対的な基準がそこにはないからである。

 それゆえに大衆をミスリードするために、マスメディアを利用する国家も出てくる。

 自分に都合のいい情報は出すが、都合の悪い情報はシャットアウトする。

 それが国家的規模になれば、専制主義国家となり、自由主義国家であれば、第四の権力とされるマスメディアの暴走となるだろう。

 かつて、第二次世界大戦では国民全体が戦争へと向かっていったが、それを煽ったのもマスメディアであったことは歴史的事実である。

 そして、戦後手のひらを返したように、民主主義を謳歌したのもマスメディアであることは間違いない。

 それが何の疑問もなく、手のひら返しできたのは、戦時中は自分たちマスメディアは政府に弾圧されていたから自由な発言ができなかったのだという弁明があるからだ。

 そのために、攻撃のターゲットとして、弾圧をしていた側の軍人(いいも悪いもなく軍人であれば悪い)、政治家、戦意高揚を歌った文学者などを積極的に攻撃の戦犯とし、批判しヒステリックに断罪した。

 そのお先棒を担いだのは、共産主義を中心とした左翼文化人や戦後転向した文化人であったのである。

 そして、国民も、反省したという姿勢を「総懺悔」という言葉で表現した。

 「懺悔」という言葉によって、すべてが終わったと思い込むのは、イジメた人間が大人になって「悪かった」といえば、すべてが終わったと思い込む心性とどこか似ているといっていい。

 正義の味方という看板を背負って、マスメディアよ、どこへ行く。

 そんな疑問を感じている昨今である。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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