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改めて言葉について考える

 今のようなフリーライターではなかった時代、会社員の時に、1年に1回の社員旅行を経験した。

 1回というのは、その後、まもなく社員旅行が無くなったからである。

 たった1回だけだったが、大勢で汽車に乗り、フェリーに乗り、そして、バスで観光名所を訪れた経験は忘れがたい。

 まだ冬が終わらない雪も降るような早春の時だった。

 そのとき、日本海に浮かぶ島のホテルに泊まったのだが、家族連れは別室になり、私のような独身グループは大部屋になった。

 宴会も終わり、窓から日本海の白波の砕け散るさまや轟きをぼんやりと見聞きしていると、隣室の家族連れから激しくなじる声が聞こえた。

 こんなところまで来てケンカだなんて少し興ざめだなと思っていた。

 そのとき、私は父親が子供を叱っているのかなと思っていたが、よく聞いてみると、どうやら違っていて、子供が怒鳴っている声だった。

 隣室だったので、細部の事情は聞けなかったが、次の捨てゼリフは理解できた。

 「このハゲおやじ!」という言葉だった。

 私は、昼間は仲の良い親子だったと思っていたのに、と衝撃を覚えたことを思い出す。

 その翌日、私はこの親子の顔を直視することができなかった。

 ただ、その後、しばらく社員旅行が終わっても、この父親は落ち込んでいて、どれほど子供の言葉が衝撃を与えたかがうかがえた。

 言葉の恐ろしさは、肉体的な傷よりも、心に傷を負わせるからである。

 身体の傷は時間がたてば、薬や軟膏によって自然に治癒していく。

 だが、言葉によって与えられた傷はずっと精神の中で、よどみ、時間が過ぎてもなかなか治癒できない。

 そのような言葉のもつ力について、古代の日本人はよく知っていたので、言葉には魂があるとして、「言霊(ことだま)」という表現をしている。

 言葉に魂があるがゆえに、人の喉から発せられた言葉は、時に刀剣よりも人を傷つけ、血を流させる。

 現代人には理解できないことだが、言葉をどう使うか、どう発するか、というのは重大な問題だったのだ。

 ゆえに、古代の戦争には、この言葉を使って敵方を倒すという考え方があり、そのために呪術師のようなシャーマンが先頭に立ち、相手方を呪って、その戦意を喪失させる言葉を発した。

 どれだけ相手を誹謗中傷するか、それによって相手の心理に動揺を与えるか、それは神々の存在が信じられていた時代には有効な武器であった。

 その後、実際の戦闘が始まるのだが、シャーマンが精神的に相手を圧倒していた方が戦意高揚していたので、勝つ可能性が高かった。

 その意味では、古代の戦争は言霊の戦争でもあったのである。

 古代の戦争、例えば聖徳太子が幼少のころに物部・蘇我戦争に、仏教の加護を得て物部を打ち破ったエピソードも仏教の言霊が物部氏の言霊を打ち破ったともいえるだろう。

 私はこのことに関して昔から不思議に思っていたことがある。

 それは言葉の文学的な表現形式である和歌のような詩の世界をつかさどった氏族、例えば万葉集を編纂した大伴家持のような氏族が大きくかかわっていたことである。

 今でこそ、大伴氏は歌人を輩出する貴族のように思われているが、名前にあるように天皇家に仕えて来た武断の家である。

 要するに、軍事をつかさどって天皇家に従ってきた(供奉してきた)ので「大伴」という名前を与えられた。

 大伴家持の有名な、先祖の業績を偲びつつ歌った「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ」という言葉も、こうした軍事氏族であったことが示されている。

 そのことは、少し後に続く言葉によっても明らかになる。

 「梓弓(あずさゆみ) 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り」

 弓矢を持ち、剣をもって戦う軍事氏族であったことが歌われている。

 戦争に従って多くの犠牲者を出してきたのが大伴氏であることを考えれば、その武断の家がなぜ万葉集のような軟弱なイメージがある文学の担い手の歌人となってしまったのか。

 そのことも歌の中で示されている。

 「大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君(おほきみ)に まつろふものと 言ひ継げる 言(こと)の官(つかさ)ぞ」

 弓や剣をもって仕えた大伴氏は、また言葉の官として仕えたということがここでもわかるのである。

 軍事的な氏族であると同時に、呪術的な言葉を扱う氏族でもあったということ。

 言葉の威力が信じられていたことがここでも示されている。

 その後、政治と軍事が分離していき、それぞれ専門的な組織となっていたが、古代では武器と同じように歌(言葉)が考えられてきたのである。

 そのことは、基本的に和歌が重視される伝統につながり、多くの歌集が個人ではなく、国家事業として編纂されてきたことも理解できるといっていい。

 天皇の命令で行われた勅撰和歌集は、言葉を通して、ある意味では中央集権の権威を立てようとした事業でもあったのである。

 すなわち、藤原氏の台頭によって天皇家の権威が衰え、古代有力氏族の後退が、政治という表舞台の権力ではなく、かつて同じような権威を持っていた和歌、言霊の力による復活を願ったのが勅撰和歌集でもあったということができるかもしれない。

 そのことを自覚して宣言したのが、大伴氏と同じような古代有力氏族であった紀氏であり、その代表であった紀貫之は、古今和歌集の序文の「仮名序」において、和歌の復権、その権威を高らかに歌う。

 「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。

 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。

 この歌、天地の開け始まりける時より出で来にけり」

 歌が天地の開けたときから現れたといのは、古代においては、まさに言霊の歌が剣や弓よりも権威をもち、力をもっていたということの宣言である。

 その意味で、言葉は恐ろしいのである。

 改めて、そのことを知らなければならない。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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