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日本における家族という意識の意味

 東京に住んでから、数えてみればもう40数年となる。

 これぐらい住んでると、かなり地理的な面においては知っている場所が多くなっているはずなのだが、そうはなっていない。

 東京都でも、知らないところが多いだけではなく、住んでいる近所でも、いつも使っている場所ではないと、未知の部分がたくさんある。

 考えてみれば、通学や通勤の場合、決まったコースをたどることが多いので、それ以外の道はわからない部分となる。

 基本的に、会社勤めの場合は、始業時間に合うように、時間を割り振って出発するので、道草をしながら歩くということはない。

 むしろ遅刻しないかどうか、時間通りに駅に着き、電車に乗ることができるかどうか、そんな心配をしながら歩いているので、よそ見をすることさえ稀だ。

 毎日、同じような行動パターンでいると、心理的にも安心できるが、刺激もないので、途中の景色を見ているようで見ていない。

 目に入っていても、それはただの風景であり、ことさらそれを認識しようと意識することはない。

 こんな生活をしていると、もう数十年、東京に住んでいるといっても、ただ、空間の点として生活しているという感じになる。

 そのために、新しい道を歩んだりしていても、ことさら新しい景色として認識しようと思うことがなく、ただ少しばかりいつもとは違った所を歩いているといった受け止め方をしてしまう。

 まったくの未知の地域ではなく、既知の部分を拡大したところ、延長した感覚が広がっていくといった印象がする。

 その意味では、東京に住んでいても、そこで住んでいるという実感や定住しているといった観念が乏しいのである。

 これはある意味では、都会生活者の感じる共通した感覚といっていいかもしれない。

 一時的にここに住んでいるといったものが強く、そこに根をおろして長年、住み続けていくという覚悟さえあまりないのである。

 これは生まれた故郷から出て、大学へ通ったり会社に勤めるという都会生活をしていく形態が、どうしても仮のものとして感じられるからだろう。

 要するに、そこに一家を構えたとしても、家族それぞれが独立していけば、共同体としての意識が希薄になり、家族関係もまた別々になって、特に共生することもなくなるということが大きいのではないか。

 要するに、家族関係さえも仮のものとなっているような希薄さ、そこに共同体としての家族関係の絆が細い線となっていつ切れてもおかしくないような関係になっているからだろう。

 それは何も家族関係だけではない。

 人間が知り合い、絆を結ぶ学校の友人同士の関係も、懐かしい知縁関係であっても、そこにずっと共同体意識を持続するものは無くなっている。

 会社も、帰属意識、アイデンティティを強く感じさせるものであっても、定年を迎えてしまえば、それはOB意識があっても、それだけでしかない。

 会社の人間関係はビジネスの関係だが、そこに家族的な意識を投影できたのは、以前はあった年功序列的な組織であったからである。

 年功序列というのは、能力に応じて組織されたアメリカ的な合理主義ではなく、会社を一種の家族とみなした擬似的な関係において成立する。

 能力あっても、無くても(これは極端な表現かもしれないが)、家族の兄や姉として見るならば、それを弟や妹の立場の者がカバーして助けるという構図となるだろう。

 互いに能力ではなく、擬似的な家族関係によって、補い、助け合うことで、会社という家族を維持していく。

 ダメなお兄さんやお父さんであっても、家族ならば切り捨てることができない。

 むしろそうであればあるほど家族全体で守り助けていく。

 年功序列という形式は、そうした意識によって支えられてきた面がある。

 それが日本的な経営として成功したのも、社会自体が、個人主義ではなく、家族的な意識が強かったこと、あるいは国家自体がムラ意識の延長にあって、互いに暗黙の了解によって成立していたからである。

 ところが、今やそんな時代では無くなってしまった。

 家族という拠点は、ただ個人主義的な自立を計るための一時的な場所になり、核家族化して分散していった。

 もちろん、成長して大人になれば、親から離れて自立していくというのは人間の成長プロセスとして当たり前である。

 それが、動物であればテリトリーなどの関係もにあって、自立は、そのまま親から離れて新しい家族をつくるためのものでもある。

 動物は社会を営むということはほとんどないので、大人になることがそのまま別れとなって、再び家族関係に戻ることはない。

 しかし、人間は家族から自立しても、社会を構成し、文明を形成していることから、家族からの自立は新しい家族の関係の構築であるとともに、同じ大人の人間が集まる社会の共同体形成という、より一段階高い存在と飛躍するためのものとなる。

 しかし、こうした高度な段階への成長は、やはりその基盤となる家族関係が重要となるのだが、それが軽視された時代になっている。

 親子関係も、家族という意識が希薄となっていき、というか、家族をつなぐ愛情関係の意味が分からなくなっているのだ。

 家族関係というのが、一種の学校や会社のような一時的なものと重なって理解される面があるのではないか。

 学校であれば卒業して別れていくし、会社であれば定年によって現場から離れて社会の構成員からドロップアウトするしかない。

 こうした機能的な関係は、個人主義的な能力主義や合理主義から来ているので、ドロップアウトすると、そのまま孤立へと傾斜する。

 高齢者における独居老人、孤独死などは、こうした家族関係の希薄化や絆の喪失から来ているのである。

 以前は、こうした孤立化の受け皿がムラ社会における共同体意識、土地に根ざした人間関係、濃密な冠婚葬祭関係、祭りや宗教的儀式などの共同作業があったために、高齢者の孤立は避けられた。

 その意味では、社会再生は、その根本である家族の再生こそが重要であることがわかるのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫) 

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