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竜馬と龍馬 名前に込められた力

 最近は、歴史の見直しが行われて、かつて影響力の大きい仕事をした人物の名前が教科書などから消えてしまっていく傾向がある。

 たとえば、幕末維新回天で大きな働きをした志士・坂本龍馬の事績についての再検討がされている。

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不明 – この画像は<a href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8″ class=”extiw” title=”ja:国立国会図書館”>国立国会図書館</a>の<a rel=”nofollow” class=”external text” href=”http://www.ndl.go.jp/portrait/e/datas/89.html”>ウェブサイト</a>から入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

 坂本龍馬は、薩長同盟や大政奉還の成立にキーマンになる人物というふうに見られてきたが、歴史学者の研究によって、それほどの力はなかったのではないか、という考え方が出ている。

 もちろん、影響は与えただろうが龍馬によってなされたというよりは、他の人物の力が大きかったという指摘だ。

 たとえば、大政奉還などは、龍馬の独自のアイデアではなく、幕府の高官だった大久保一翁の発想だったという説がある。

 こうした歴史の再検討が出て来るのは、それだけ龍馬が実像よりも巨大なカリスマになってしまい、本当の事実を覆い隠してしまう反動だろう。

 歴史的人物の評価が時代によって上がったり下がったりするのは、これまでも多々あったことであり、龍馬への低評価も、そうした流れにそったものと考えていい。

 そうした歴史評価の変化は、何も歴史分野だけではなく、文学者の評価の変遷にも相通じるものがある。

 夏目漱石が死後、弟子たちによって祭り上げられて神聖化された面や志賀直哉などに「小説の神様」という名称をつけるのも、一種のカリスマ化であり神話化である。

 その後、そうした神話化への反動として否定的な見方が生まれ、そして、現在では一定の評価に定まっていることがある。

 龍馬について言えば、カリスマ的な人物として見られるようになったのは、作家の司馬遼太郎による『竜馬がゆく』の小説の力が大きい。

 多くの現代人が抱く龍馬のイメージの大半は、司馬史学が作り上げたといってもいいかもしれない。

 そのことを感じさせるのは、司馬がつけた坂本龍馬の一字を変えて、坂本竜馬としたことにあるように思う。

 なぜ歴史的人物である龍馬を竜馬としたのか。

 司馬の文章を見るかぎりでは、少しばかりわかりにくいが、要するに、史実に縛られた人物から解放し、魅力的な主人公として小説の中で誕生させるための工夫だったことにあるのではないのか。

 龍馬と書いていると、歴史的人物として、なかなかフィクションの世界で羽根を伸ばすことができない。

 だから、「竜馬」という風に少し漢字をずらすことによって、司馬だけの竜馬が物語の中を歩み出す。

 こうしたやり方は、何も司馬だけのことではない。

 作家の多くが私小説などで、自分の名前を使わずに、仮名やペンネームに変えて書いていることからもうかがえる。

 事実を書くはずの私小説や自然主義の小説が本名を書かない割合がなぜ多いのか、という問題につながるのだが、プライバシーの問題もそこにはあるが、もう一つ言えば、本名というのは、小説の中で使うと、かえって嘘くさくなる、うすっぺらに感じてしまうようになるからである。

 事実を書くといっても、そのままでは単なる日常の記録になってしまう。

 そこに小説的な世界を創造するには、自分をも他者として描く方法が必要になって来るのである。

 事実を書いた小中学生の作文が、そのままでは小説にはならないように、事実らしく表現するための工夫の一つがやはり名前であるだろう。

 龍馬と竜馬ではイメージが視覚的にも違う。

 龍馬には奔放なイメージ、茫洋としながらの将来の国家デザインを企ているようなカリスマ的な印象はあまり感じられない。

 それに対して、竜馬というと、枠をはみ出し、天に伸びあがるような奔放なイメージが生まれて来る。

 それだけ略字の竜には、余計な装飾、形容詞がはぎとられたような自由さ、規格外れのエネルギーといったものを感じさせるのである。

 それほど一字違いでも、大きな差が生まれるといっていい。

 名前は単なる記号ではなく、その背景に名前の持つ一種の呪術的な力が働いていると言ってもいいのではないか。

 よく言われることは、幸福になることを親が願って「幸子」などの名前をつけると、むしろ不幸な人生を送りやすいという話がある。

 一種の都市伝説のようなものだが、それだけ文字の本来もつ力とその人の持つ素質や潜在能力の間にずれが生じて、人生が狂ってしまうということらしい。

 名前には、発音することによる音韻の響き、漢字という文字の外形から来るイメージといったものが重なり合っているのである。

 名前を呼ばれ続けるということは、その名前の力に引きずられやすいということでもある。

 ところで、なぜ坂本龍馬という名前がつけられたのかについては、司馬は本当かどうかはわからないが、生まれたとき、背中に馬のタテガミのような毛が生えていたからだというような説明を書いていたことを思い出す。

 名前には、そうしたつけられだけのやはり根拠があるのであり、ある意味では、背中にタテガミを生やして生まれたことで、龍馬という名前をつけられたのは、偶然ではないのである。

 これは本当のことかどうかはわからないが、偉人の出生神話・伝説などは、後からつけられることもあるから、なんとも言えない。

 豊臣秀吉にも、そんな出生に関する伝説があるけれども、これは本人が権威付けのために後からつける場合と、後に出世するだけの奇瑞が誕生に際してあったという周囲の人が改めて創作した神話がある。

 明治大正までそれほど知られていなかった龍馬がこれほど有名になったのも、司馬遼太郎の小説とその一部に名前の変更といった要因もある気がする。

 いずれにしても、名前には不思議な力があり、それは人生の進路と運命にも関わって来るものがあるのは確かだ。

 もし、司馬遼太郎が坂本竜馬ではなく、本来の坂本龍馬を使って小説を書いていたらどうなっていただろうか。

 そんなことを考えると、名前をおろそかにはできない、という気持ちにもなる。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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