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幸せの青い鳥はどこにいたのか

 良く知られているメーテルリンクの童話『青い鳥』は、幸せがどこにあるのか、チルチルとミチルの兄妹が探しに出かけていき、実は身近にあったという話(もっと原話は複雑だが)である。


 なぜこの話を引き合いに出したかというと、最近、高齢となって自分の行動範囲がずいぶん狭くなっていると感じたことと関わっている。

 別に自分自身としては、行動範囲を意識して狭くしたわけではない。

 だが、足腰が弱ってくると、行ける場所の距離が短くなってくる。

 それにふつうに歩いていても、若い時のような歩幅ではなく、一歩一歩の歩幅が縮まっている。

 そのことは意識ではわからなかったが、歩いていると、ふつうに歩いている若者にすぐに追い越されるからである。

 別に若者が急いで歩いているわけではない。

 ふつうの速度で、ふつうの歩幅で歩いている。

 それなのに次々に追い越されてしまう。

 彼らに追いつくためには、意識的に速足にならないと難しい。

 要するに、物理的に足の筋肉が衰え、年齢相応に歩幅が小さくなってしまうのである。

 こうしたことからも、年齢とともに行動範囲が狭く限られていくことを自覚させられる。

 もちろん、時間をかければ遠距離も行けないことはない。

 ただ、若者が前に時間が進むとしたら、高齢になると、後ろに後退するという時間感覚になってくるということである。

 若者が川の流れのように移動するとすれば、高齢者は逆流を受けて前進すといったイメージがあるのだ。

 若い時代は、歩くことに意識を向けたことはない。

 左右の足が無意識に自動的に前に進む動作をするといった感じだったが、年を重ねるごとに、そんなオートマティックな作用がなくなり、意識して足を動かすといったふうになる。

 それこそ、古くなって油をささないとなめらかに動かない機械のようなものかもしれない。

 だから、歩くぞといった神経組織を通じて、錆びついた骨を動かしているような感覚がある。

 しかし、高齢者であっても若者顔負けの行動力がある人もいる。

 心身を鍛えていれば、現状維持を持続できるからである。

 武道家などはその好例であるといっていい。

 だが、それでも、加齢とともに進行する衰えを食い止めることはできない。

 どうしても、行動範囲は狭くなり、そしてへたをすると、家に引きこもっていても、それほど違和感を覚えなくなる。

 引きこもりというと、若者特有の現象のように思われているが、行動範囲、テリトリーの縮小という面からみれば、高齢者の姿に重なっている。

 若者は引きこもりによって精神が病んでしまう傾向がみられるが、高齢者はむしろその狭い行動範囲で焦燥を感じないことが多い。

 なぜ若者が病んでしまうかというと、若者の心身のエネルギーは外に押し出す力があるからで、その出口がふさがれてしまうと、不完全燃焼を起こすからだ。

 不完全燃焼して、焦燥感、無力感、憂鬱な気持ちになる。

 それは生命が衰えているからではなく、むしろ過剰だからではないか、と私は思っているが、どうだろうか。

 何かをなしたい、行動したい、生きたいというエネルギーが不完全燃焼するためにかえって外の扉を開けられない。

 そんなイメージがある。

 『青い鳥』を見つけようと、家を飛び出すのは、そうしたエネルギーが満ちていて、身近なものへの意識が働かない若者の自然な姿である。

 冒険をしなければ、幸せの青い鳥を身近に見つけることができない。

 結局、幸せの青い鳥が身近にいたのを発見するというのは、若者のための話ではなく、老人の悟りの境地に通じるといっていい。

 外の荒海に出て、様々な経験を通じて見えて来る世界なのである。

 なぜなら、身近にあった幸せというのは、青年時代の冒険や失敗、様々な出会いを経てしか、発見することができないからである。

 私も、若いときは自分の生まれた故郷から早く出たいと思っていたことを思い出す。

 高校を卒業してから、地元の大学に進むことも考えられたが、そうした安定した生活よりも、はるか未知の世界である東京の大学へ行きたい、そこに行けば何か新しいことが始まる、新しい世界が広がると思い込んでいた。

 故郷はどこか自分を束縛して自由にさせない牢獄のようにも感じていた。

 ここではない、どこか別なところに行きたいという衝動は、自分の意識的な選択から生まれたエネルギーと思っていた時期。

 それはむしろ人間という存在の成長過程の自然な表れではないのだろうか。

 動物はある時期が来ると、親は子を追い出して、自立の道を促す。

 人間は、そのような動物の世界に見られる親が子を突き放すという、自立のための親離れという行動はないような気がする。

 せいぜい、青少年期の反抗期がそれに当たるかもしれない。

 自立のためには、親という家から離れて旅をしなければならない。

 そして、自分の居場所を見つけて、そこで新しい家族をつくり、定着し、そして血のつながりのある故郷の老いた両親を訪ねていく。

 高齢となって肉体が衰え、精神が熟していくことによって、ふるさとの父祖の地が懐かしい、そして魂の帰る場所として意識される。

 そして、肉体の死とともに父祖の墓に入っていく。

 それが人間の本当の姿ではないだろうか。

 命をつなぐということは、そうした父祖の歴史の中に帰るということでもある。

 だから、年老いてから故郷へ帰るというのは、高齢となって行動範囲が狭くなっていくことと深い関わりがあると感じている。

 その意味で、足の速度は遅くなってしまったが、それによって、思索や周囲の環境への思いが強くなり、そして、身近な幸せの青い鳥が見えて来る。

 身近なものが大切なものとなってくる。

 高齢者になると、筋肉などが衰えてゆるくなってしまうが、その一つにすぐに涙腺がゆるくなることがある。

 若い時には感動的なドラマでも、なかなか涙が出なかったが、高齢になると、少しのことで涙もろくなって感動してしまう。

 それは様々な経験と冒険の果てに、身近な幸せの青い鳥を発見すること似ている。

 『青い鳥』のチルチルとミチルの兄妹は、実は幼い姿をしていように見えて、本当の姿は人生の様々な試練や経験を積んだ老人たちではないか。

 そんな気もするのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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