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コロナ以後は共生共栄の世界へ

詩の小径

 詩はなぜ生まれのか。

 なぜ詩という言葉によってしか、表現しえないものがあるのか。

 詩が人間の生き方の本質にふれる部分があるからだろうと思う。

 その意味で、詩は啓示的な面をもっているのではないか。

 詩人で評論家の吉本隆明の詩に、「みえない関係が/みえはじめたとき/彼らは深く訣別している」という有名な詩句がある。

 この言葉の背景には、第二次世界大戦時代、無条件に愛国少年だった吉本が、日本の敗戦後、既成の秩序、信じていた世界が崩壊して投げ出された空白の時代、みずからの思想と姿勢を再構築しようという内的な意志、発見を詩の言葉として結晶化したものである。

 吉本は、この詩を書いたのち、哲学や文学、社会科学や経済学、そして、マルクスを研究することを通して自己再建をしながら、思想的に革命家への道を歩んだ。

 その思想傾向は、相いれがたいところもあるが、この詩人的直観で書かれた詩句には、人間の生き方の本質に根差した真実が含まれている。

 「みえない」ものが見え始めるというのは、物事の本質はみずから見ようとしない限り、見えてこないということ。

 たとえそれが戦争の終わり、外的な原因によってもたらされたものだとしても、自分の足で立ち上がり、見ようという意思をもって取り組み、努力して思考と生き方を再構成していかないかぎり、戦中と戦後を無意識に繋げてしまう自衛本能によって、同じような生き方をしてしまうのが人間なのである。

 戦中、軍国主義だったものが、戦後、急に民主主義者に転向するというのは、こうした自衛本能、本当に反省したのではなく、単に立ち位置を変えた、そこには内面的な悔い改めや反省はなく、時代の潮流に身をゆだねただけに過ぎないといっていい。

 戦中と戦後、本質は何も変わっていないのである。

 むしろ、自己欺瞞を無意識に隠蔽することで、自分の本質が見えなくなってしまっている。

 その意味で、吉本少年は、信じていたものが崩壊することを通じて、自分というものを見つめなおして、戦中と決別し、新たな生き方、自分の目でものを見て考え、自分と世界との関係の本質を考察して自立の道を歩んだ。

 そのように、外的な要因によって世界が崩壊した世界をどう生きていくか、という問題は、その後の世界に自分がどう生きてくか、という本質的な問いかけに対する世界からの問いかけであり、それを無視することはできない。

 世界というと、抽象的なイメージがあるが、それぞれ受け止める人によって違っていいい。

 宗教者であれば、神といっていいし、科学者であれば真理と言い換えてもよい。

 いずれにしても、人間は単独で存在しているのではなく、家族や社会、国家という関係性の中で生きているのである。

 その関係性を切り離して、自分が単独で生きているような幻想をもつことは、ただ単に自分だけの世界で遊戯していることになる。

 そうした世界から押し出され、あるいは決別して、本質的な生き方を模索する時間を与えられるのが世界的危機の状況である。

 それがわれわれが現在、直面している新型コロナウイルス感染のパンデミック状況がそれにあたるのではないのか。

 日本の敗戦や東北大震災のような事態は、日本一国だけの問題だったが、新型コロナウイルスは、国境線を越え、人種を越え、思想宗教を越え、世界中が同じ危機的状況を迎えているといっていい。

 このような時、われわれはどう危機に立ち向かうべきか。

 というか、ただ単に自分の生命を守るために生きるだけではなく、そこからどのような生き方を学ぶべきか。

 そうしたことをしない限り、われわれは何も戦争や天変地異などから、何も学んだことにはならない。

 ただ単にその危機を物理的現象として、その危機を食い止めるインフラだけを整備して良しとしてしまうなら、それを学んだということにはならないのだ。

 なぜなら、そうした危機、戦争にしても、天変地異にしても、まったく人間の関与なしに起こる現象だとは言えないからである。

 戦争はもちろん人為的な原因によって起こるし、天変地異などの多くも、その原因には、人為的な自然破壊などが幾分かは含まれているからである。

 われわれの生き方そのものの見直し、あるいは反省をしないかぎり、また世界的なパンデミックが再度起こらないとは言えないのである。

 そして、その時に同じような過ちをしないとは言えないのである。

 なぜなら、以前の東北大震災のような大事件が起こっても、その時の衝撃が大きいインパクトと悲しみをいつの間にか忘れていき、時間とともに風化させていくからである。

 そのために、忘れないためのテレビ特番や体験を語り継ぐということが行われているが、どのようにしても、時間が記憶を薄れさせていくことは否定できない。

 また、そうして忘れ去ることによって、受けた傷からの回復、前向きに生きて行こうという気力や意思が生まれて来る。

 忘れることで、生きていくことができる面がある。

 もちろん、それは鎮魂や慰霊を否定することではない。

 記憶することは悪いことではないのである。

 記憶しつつ、しかし、そこから新しい生き方を学ばなければならないのだ。

 われわれは、そうした危機からどのような生き方を学ぶのか。

 それは、地球と人類のために、個人として、どのように生きるべきなのか、ということではないだろうか。

 それまで、われわれはアメリカから学んだ民主種という名のもとで、個人主義を謳歌してきた。

 その生き方が問い直されているのではないか。

 むろん、それはわれわれだけではなく、ロシアや中国、北朝鮮のような社会主義・共産主義の国でも同じである。

 欲望をほしいままにする傾向がある個人主義という民主主義、全体主義独裁の中で、個人が圧迫されている社会・共産主義、どちらにしても、人間の本質的な生き方を指し示していない。

 これからは、個人主義や全体主義ではなく、地球自然との共生、他国との共生共栄、すなわち平和と調和によって、人類が同じ家族として共に兄弟姉妹として地球に生きるというのが本質ではないかと思うのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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