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予言者・出口王仁三郎 新聞発行によって布教

 インターネットの発達によって、紙媒体のマスコミである新聞紙や雑誌、テレビメディアが苦戦を強いられている。

 文明が発達するにつれて、生活を快適にする機器が発達し、そのツールが流布すれば、旧世代の生活スタイルが廃れていくのは仕方がないが、それにしても、その速度があまりにも目まぐるしい。

 ただ、こうした状況は、時代の流れとして仕方がないといっていいだろう。

考えてみれば、デジタルにその座を奪われつつある紙媒体のニュースの伝達手段も、原始的な粘土版や石碑やその他による伝達手段から紙の発明によって画期的な発展を遂げ、長い間、その座を守って来た。

 今回、ネットの世界で宗教の祭事やお参りさえも行われるようになった風潮を見て感じることがあり、少しばかり宗教の布教について考えてみたい。

 紙媒体による宗教の布教について考えると、最初はどうしても、世界的なベストセラーである聖書を取り上げなければならないだろう。

 というのも、キリスト教布教に多大な貢献をしている聖書は、グーテンベルクの印刷革命によって一般庶民にキリスト教が浸透していったからである。

 聖書を独占していたのは教会であり、司祭だった。

 その教えにふれるのは教会という聖なる空間であり、司祭の説教であり、その内容について云々することはタブーであった。

 そもそも聖書を読むための手段が限られていたし、文字を理解する識字率も低かったのである。

 それまでは、教会の司祭などが羊皮紙に手書きされた写本を中心にして、聖書の教えを読み、そして口頭で伝えたがゆえに宗教的権威を司祭が象徴していた。

その教えの内容が本当に真実であるかどうか、信者が点検し考えるということがあり得なかった。

 ゆえに、教会を中心としたヒエラルキーが社会全体を構成し、その権威のもとに階層社会、封建的な制度が形成されていた。

 その権威を崩したのがマルティン・ルターなどを中心とした宗教革命であり、それが一般庶民にまで浸透したのは聖書の印刷、特に、ラテン語からのドイツ語訳を通して誰でも読めるようにしたことが大きい。

 といっても、まだ当時は識字率が低かったので、印刷された聖書を読み理解したのは知識階級であったことは間違いない。

 では、そうした宗教改革の内容がなぜ一般庶民や農民に伝わり、カトリックに対抗してプロテスタントとして武装蜂起や抵抗をする勢力になったのか、といえば、改革派学生や僧侶などが、号外を出し、宣伝し、なおかつ識字率の低い農村社会には、改革派の若い学僧たちが号外などを持っていき、群衆を集めて会合を開きそれを訓読しながらカトリックに対する批判をわかりやすく(講談や落語まではいかないだろうが、娯楽に飢えていた農民にわかりやすい話をした)説いたからである。

もともと虐げられてきた搾取されていた農民たちの不平不満を集めて一揆などの運動になっていき、封建諸侯などの政治的目論見や野心と結びついて旧教であるカトリックとプロテスタントによる宗教戦争に発展していったといっていい。

社会の変革や革命に影響を与えるほど大きな力を持つようになったのは、そうした知識をニュースとして広めていったマスメディアの力、活字で事実を報道する紙媒体による新聞があったからである。

 それだけ新聞などによる大衆社会への影響力が大きいことは間違いなく、新聞やテレビなどのマスメディアが「第四の権力」と呼ばれる根拠が根底にある。

 その意味では、マスメディアの発達は、聖書の例からもわかるように、もともとは宗教運動と深いかかわりがあったということができる。

 といっても、テーマを広げてしまうと、わけがわからくなってしまうので、日本でいち早く宗教団体として新聞を発行した予言者でもある大本教の出口王仁三郎(1871~1948)について言及したみたい。

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 出口王仁三郎は、宗教という枠にはとらわれない社会活動をしているが、その一つに新聞社を買収してマスコミによる布教活動をしていることがある。

 それまでの宗教教団は宣伝活動という点では、マスコミを使うということはほとんどなかったが、王仁三郎は、そのようなあり方を一変する挙に出た。

大正9年に当時の一流新聞だった『大正日日新聞』を買収したのである。

 一宗教団体が、一般の新聞会社を買収するという点で、この事は当時の社会世相に大きな衝撃を与えた。と同時に大本教という地方的な宗教団体が、日本全体にその存在を知らしめる転機ともなった。

 もともと大本教は、筆先神示という予言的な言辞をもって、社会や政治に警告を発し、盛んに布教師が日本全国を巡回していたが、このマスコミによる大量な活字による宣伝は、マスコミをも巻き込んだ宣伝にもなっていったのである。

 「大本が、大正日日新聞をはじめて機関紙の『神霊界』やその他の全出版物をあげて、強烈に訴えかけようとしたのは、日本と世界の『危機到来』という思想だった。しかし、当時の国内情勢は複雑で、ストレートにそういう主張が認められるわけのものではなかった。(略)宗教教団が、新聞や雑誌などのマスコミ手段を自分でもち、教義や運動の拡大に利用するというやりかたは、今日においては、どの教団もやっていることで、なんのふしぎもない。しかし、日本においてはじめてこのやりかたを確立したのは、大本であった。大本はその後も、さかんに新しいマス・メディアを開発し、めざましい言論活動を展開する」(出口京太郎著『巨人 出口王仁三郎』現代教養文庫)


 9月25日に『大正日日新聞』の復刊一号が出されるが、その部数は朝日や毎日新聞の発行部数を上回るもので、48万部だった。とはいえ、その新聞の論調は、きわめて戦闘的な論調であり、今でいう新聞というマスメディアの報道姿勢とはやや違っていて、一種のイデオロギー的な色彩を帯びていた。(この項続く)  (フリーライター・福嶋由紀夫)

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