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名物にうまいものなし?

 秋は食欲の秋である。

 多くの食物や果実が実り、気候もほどよくなるせいか、食欲を誘うのは自然なことだろう。

 空気もすがすがしいし、秋の紅葉も彩りを添えて風景も美しい。

 見ているだけで、心も癒される。

 空の青さや植物の豊かな稔りの風景は、いやがおうにも旅情を刺激する。

 秋から冬にかけての季節は、農耕の上でも収穫を終えた後なので時間があり、昔から骨休みの温泉巡りや伊勢参りなどの信仰を中心とした旅が盛んだった。

 もちろん、兵農が分離されていなかった戦国時代あたりは、この期間に戦の兵を起こし、他国へと領土獲得のための進軍を行った。

 軍神と言われた北陸の雄、上杉謙信も軍事行動は農繁期を避けて兵を動かしやすい季節だった。

 四季のうちで、それほど軍事行動ができた季節はそれほど多くはない。

 何しろ、兵士となるのは、一家の大黒柱の男性で、食うための田畑を耕さなければならないという制約があったのだ。

 あれほど強兵を誇った上杉謙信でも、天下を取れなかったのは、こうした制約があったからだと指摘する説もある。

 その点、兵農分離をいち早く行い、専門の軍団を作り上げた織田信長は、こうした制約に縛られない自由さがあった。

 それが天下取りへと信長を押し上げた理由の一つでもあるだろう。

 ところで、旅行シーズンで楽しみと言えば、名所旧跡などの観光地を訪ね、温泉などにつかってのんびりと楽しむことがある。

 それに加えていうならば、その土地の名物、グルメを味わうことだろう。

 現在では、昔のような交通の不便さもなくなったので、山奥でも海の幸を提供する宿があったりするが、昔はその土地の名物を出すしかなかった。

 そのせいもあるのだろうか、よく知られたことわざに「名物にうまいものなし」という、いささかぶっちゃけすぎたような言葉がある。

 ことわざには、長年の人々の知恵から生み出された真実がある。

 といっていいかどうか、実は迷っている。

 真実だからといって、それをそのまま受け止めてしまっていいのか、という疑問が少しばかりあるからである。

 おそらく、ことわざには、それが生まれたその地域の事由が背景に存在するのではないか。

 だれかがそのことわざを生み出したとして、それが広がっていく上においては、多少の付加や削除などの変更が加えられているのではないか、と思ったりする。

 ことわざは、何しろ真理ではなく、だれもがそうだなと納得する事実といった方が妥当な気がするからである。

 日本全般に通じるようになったのは、そうした変更がされた後ではないか、と思ったりすることがある。

 などなど、書いてきたのは、よく知られている「名物にうまいものなし」ということわざについて、実感することが多々あるからである。

 このことわざは、いわば観光地の名物をけなしているわけだが、だからといって、消え去ることがなく、現在までしぶとく生き残っている。

 それはこのことわざがまるっきりのウソではなく、幾分かの真実が含まれているからとしか考えられない。

 「名物」がことわざと違ってうまければ、このことわざは消えていくはずだ。

 だが、生き残っているのは、何かしら理由があるからだろう。

 私は各地を取材で訪れて、その土地の名物といわれるものを食べることがあるのだが、名物というほどおいしいと思ったことがあまりない。

 差しさわりがあるので、具体的な例は挙げないが、その土地の名物は、やはりその土地の風俗や歴史と深いかかわりがあって作られているので、一度や二度訪ねて「おいしい」と思えるのはそうないのではないか。

 もちろん、本当においしいという名物もあるので、個人的な感慨に過ぎないということもあるだろう。

 ただ、ことわざが生まれた昔は、名物は最初から名物ではなく、その土地の人々が日頃から食べているものを提供していたことを考えれば、うまいとかまずいとかというような価値基準で考える法が間違っているのかもしれない。

 そんな余裕はなかったはずだ。

 生きるための非常食でもあっただろう。

 たとえば、東北地方などの雪国であれば、その厳しい風土の中で生まれた名物には、土地の作物、伝統的な食材などの中から生きるために生まれたものがある。

 南の国からは、南の国の気候風土に合った食材で、ぜいたくなものではなく、日常生活の中で、工夫して食べられていた。

 だからこそ、それがその土地を離れた地方に住む人々にとっても、美味な食べ物であるかどうかは別問題になる。

 グルメ的な感覚でいると、なかなか名物を味わっておいしいと感じることが少ないだろうと思う。

 もちろん、名物も近現代になって、その土地だけではなく、全国的な味覚に合わせて改良されて、本当においしくなったものもあることは間違いない。

 それは例外として、伝統的な名物は、おそらくそうおいしいというものではないだろうというのが普通かもしれない。

 その点を考えれば、名物を食べておいしいのは、食べ物自体の味覚ではなく、見知らぬ土地、観光地で感じた感激や体験を再度、心の中で追体験するような気持ちになるからだと考えた方がいい。

 自分の生まれ育った土地とは違う土地に来て、その土地の人々の生活してきた精神文化、風俗、そしてその土地の人々とのふれあいや出会いなどの付加価値を全身で感じて味わうという観点である。

 それが旅の本当の醍醐味ではなかろうか。

 名物、食べ物はその一部であり、全体ではない。

 そうした点からみると、意外とうまいとかまずいとかいう感想ではなく、何かしら旅そのものの喜びが浮かんでくる。

 何気ない田畑の風景、小川の流れ、雑然と繁殖するススキなどの秋の植物、空を飛び回るトンビなどの鳥、そして、田舎の昔ながらの農家など、その一つ一つがいとおしいものとして全身に感じること。

 それこそが、旅の本質であり、喜びではないだろうか。

 今は、テレビなどでグルメ番組が花盛りといっていい。

 とにかく、おいしいものを追求し、うまいとかまずいという基準で食べ物を判断している。

 それが正しいかどうか。

 世界情勢の紛争や飢餓に今でも苦しめられている地方などがあることを考えれば、もう一度、食べ物の原点、生きることの目的などを再考してみるべきだろうと思う。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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