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失言・放言とマスコミのコメント

 テレビをつけると、コロナ禍の問題と政治のこと、タレントの不倫などが怒涛のように流れて来る。

 どのチャンネルを回しても、同じような話題、そしてニュースが報じられている。

 もちろん、そのテレビ局のキャスターやタレント、識者の人選は違うけれど、大体はどの局も金太郎飴のように同じ印象しかない。

 テレビ局からすれば、視聴者の関心のあるテーマを取り上げているので仕方がないというかもしれないが、それにしても、である。

 少しその傾向が最近、ひどくはないか。

 テレビの視聴率が下降線をたどり、それに反してネットのユーチューブなどのSNSの視聴率が高くなるのも、そうしたテレビのマンネリズム、金太郎飴のような報道への視聴者の意識の反映だろう。


 だが、その信頼性の高い新聞などのメディアも、載せるスペースや話題性、政権への姿勢から「忖度」して、真実という衣をかぶせて意図的に間違った報道をすることがある。

 たとえば、政治家のオフレコをそのまま載せたり、長い談話の一部を切り取って、政治家の意図とは違った報道をすることである。

 文章というのは、一部だけ切り取られてしまうと、意味が通じないだけではなく、述べようとすることと反対の意味になってしまう場合がある。

 その意味では、きちんと意味をくみ取って、意図を明らかにし、その上で、それを批判するなり肯定するなりしなければ公平な報道とは言えないのである。

 また、週刊誌や新聞などでの見出しと本文が微妙に食い違っている場合がある。

 見出しは、その記事の本文の要約であり、意図をわかりやすくインパクトのある言葉で読者に提供するものだが、それが読者を誤導するような見出しをつけると、本文を読まない読者は見出しだけのイメージをもつことがある。

 世論を動かすキャンペーンなども、そうした誤導を意図的に拡大し、一方的な報道へ誘導しようとするものがある。

 また、自社の主張と違う場合、意図的に小さく扱ったりすることもある。

 そうした操作は、そのマスコミの主義主張と関わって来るので、公正な報道ということを謳っている以上、無視することができないので、できるだけ目立たないように操作するといっていい。

 これはその報道する側の論理で、会社や組織という立場上、仕方がない面もあるが、問題はそのような事情は読者側はまったく知らされていないので、そのまま受け取ってしまうということである。

 扱いがちいさければ、このニュースは重要ではないのだなと錯覚して見逃してしまうこともあるし、誤導している見出しをみれば、事実とは反対のことを信じてしまうという妄信に陥ってしまう。

 かつて、ブラジル移民の日本人の間で、地元の噂や流言で日本が敗戦したにもかかわらず、日本が勝ったという勝ち組と負けたという負け組の争いがあったが、これも人間が陥りやすい心理であるとみることができる。

 人間は自分が事実を吟味して判断しなければならない真実よりも自分が信じたいことを信じてしまう傾向があるのだ。

 中世ヨーロッパの魔女狩りではないが、マスコミ自体が「正義」という旗をふりかざしつつ、実はそのことによって客観性や中立性を捨てて、一方的な世論という名で弾圧する側に回っていることがままある。

 実は割合よく知られていることだが、戦前戦中の新聞などの報道は戦争賛成の面があって、戦意高揚の世論をリードした面がある。

 その反省の上で、反権力という立場で、戦後、左派系新聞やマスメディアが盛んに政府批判を繰り返すようになった。

 政府のやることは何でも反対という、反対のための反対という論理矛盾な報道もないではなかったのである。

 そのあたりがマスコミの問題であるといっていい。

 マスコミは、よく「第四の権力」と言われることがあるが、まさにみずからの言論という武器で世論操作を無意識にやっているということをいいか悪いかは別として自覚しなければならないと思う。

 もちろん、報道というものがなければ、政権の暴走をそのまま許してしまうという側面もあるので、マスコミの存在は重要であることは改めて言うまでもない。

 いずれにしても、ただ言えることは金太郎飴のようなマンネリズムの報道では、今後のグローバルな時代をリードする責任ある言論であり続けることは難しいだろう。

 最近、読んだ本に、五木寛之著『心が挫けそうになった日に』(新潮文庫)がある。


 この中で、新聞記者からコメントを求められた経験をつづったものがある。

 「わずか五、六行のコメントを取るために、新聞記者は一時間半ぐらいインタビューすることがあります。自分が言わせたいことを言わせるまで話を聞いて、こっちが長々と主張したことは無視して、端のところだけをヒョイとつまんで記事にする。だからヘミングウェイは『インタビューは大嫌いだと』公言していました。僕はそこまで嫌わずに、『ああ、こんなに話しても、ほんの数行の短いコメントになるんだろうな』と思いつつ、インタビューを丁寧に受けています」

 この文章にあるように、私も経験あることだが、コメントを識者に求めるということは、あらかじめこちらの意図したことをしゃべってくれる識者選び、そして、その識者の話の中で、こちらの意図を表しているものだけをピックアップして取り上げる。

 これはわかりやすく報道を構成するための編集作業であるけれども、もう一方では、そのコメンテイターの意図とは違った編集をすることもあり得るということである。

 もしかすると、意味を通じやすくするための聞き手の記者やそのデスク担当により加筆などの潤色もあったりするかもしれない。

 特に、毎日報道している新聞だと締め切り時間が分単位で決まっているので、識者のコメントを確認を取る作業を省略して報道することもないわけではない。

 そのようなケースがあれば、先に引用した五木寛之のような感想になるだろう。

 もちろん、新聞などでは、識者ら一時間ぐらいのコメントをそのまま載せるようなスペースがないということが前提にあるので、記者も識者もそのあたりの塩梅を意識しつつやり取りしていることも間違いなくある。

 そうした無意識の信頼性が、新聞などのメディアは長年の報道によって構築されているので、コメントが極端なねつ造になるというケースが少ないといってもいい。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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