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秋の風と日差しの下で

 秋になった。

 冷えた風が吹き、ふれる水の温度も低い。

 あれほど強烈な暑さだった夏は、どこへ行ったのか。

 そう思うほど、急激な温度の変化には、戸惑いを覚えてしまうほど。

 何しろ秋というと、過ごしやすい気候とどこまでも澄んだ青空、多くの果実が実っている風景が思い浮かんでくるのに、今年の秋はまだそんな思いに浸ることさえできないのである。

 この背景には、夏の高温と急に変わった秋の低温のあまりの温度差に、体感的に対応できていないこともあるだろう。

 何しろ朝夕は寒い。

 けれど、日中は日差しが皮膚を刺すように照り付けてくる。

 湿度がそれほど高くないので、蒸し暑いというほどではないが、気温差に秋の快適な気分が吹き飛んでしまうのである。

 そろそろ山の木々に紅葉も染まり、秋というシーズンに入っていることを宣伝しているが、何かいつものような秋という感じがしないのは不思議である。

 やはり夏の暑さが少しずつ治まり、そこから秋の風景に変わっていくというのが、自然の推移である。

 そのようないつものプロセスから外れた今年の秋。

 どんなに気温差や自然の推移が異なっても、秋は秋には変わりはない。

 ただ、おそらく今年は秋は短く、冬の到来が早いかもしれない。

 秋は、「食欲の秋」「読書の秋」でもある。

 「食欲の秋」は、実りの季節だから変わらないが、「読書の秋」はどうであろうか。

 読書ということ自体、様変わりしているのではないのか。

 読書の言葉にもあるように、紙でできた本を読むというのが、これまでのイメージだったことは間違いない。

 もともとは、「読書の秋」のもとになったのは、中国の唐時代の詩人・韓愈の詩句「燈火(とうか)親しむべし」という一節である。

 秋の気候は書を読むにふさわしいと同時に、読書が進むために夜になっても、止められない。

 だから灯火の下でも読書をするということが、韓愈の詩から浮かんでくる。

 これが日本の地に定着するようになったのは、明治時代の文豪・夏目漱石の小説『三四郎』がきっかけになっていると言われているが、本当かどうかはわからない。

 ただ、明治時代は、江戸時代のパラダイムが終わり、新しい秩序の出発となって、新設された大学で何を学ぶか、という時代であったことは間違いない。

 江戸時代は、士農工商という身分差があった封建時代なので、学問をする、書を学ぶということは、たしなみとしてはあったが、それによって身分が変わるということはほとんどなかった。

 もちろん、突出した学者になれば、藩や幕府から抜擢されて武士扱い許されるという例外はある。

 そのような江戸時代に対して、明治時代は封建制度が崩れ、新秩序へ移行する時代であった。

 この時代を推進したのは、福沢諭吉が『学問のすすめ』で示した学問することによって立身出世ができるという希望であった。

 学問を身に着ければ、末は大臣にもなれるという可能性が、人々を書を読むことに向かわせた一因でもある。

 その意味で、読書するには秋がふさわしいという雰囲気が醸し出されたと言えるかもしれない。

 また、日本という国自体が、書籍を大事にしたという背景もある。

 島国であれば、そのままでいたら、学問や技術の進展はなかなか難しい。

 停滞と衰退が待っている。

 だからこそ、日本は文明発展のために、積極的に外来の文化や新技術を学ぼうとした。

 古代であれば、そうした知識と技術をもった渡来人によって新しい文物などを移植されることができた。

 漢字を学び、そして、技術を習得したのである。

 だが、そうした渡来人の存在だけでは、限界がある。

 それを補ったのが、書籍による新知識と新技術を学ぶことだった。

 本を通して、新技術と新知識を学びながら、それを日本全体に波及させていく。

 それによって、日本全体の文化が進展していったということができるだろう。

 読書は、そのような日本の海外の新知識を得るための手段であり、窓口だった。

 そのような書籍を大切にしたことを示すのは、遣隋使や遣唐使などの派遣であり、そこで留学生たちが先進知識を学び、修業の後に帰国した。

 もちろん、留学期間だけで、膨大な知識や技術を習得するのは難しい。

 それを補うために、膨大な書籍を買い求めたのである。

 唐時代の記録にも、日本人が洛陽や長安などで、大量の書籍を買い漁ったという記述が残っている。

 それほど日本人は、書籍を他の何よりも価値のあるものとして尊んだのである。

 そのような伝統が読書の秋にはあるといっていい。

 いかにも、秋に本を読む姿は季節感にあふれた光景であり、それを通して人格の養成やバランスのいい知識を育んできたのである。

 ところが、最近は読書のスタイルも少しずつ変わってきている。

 紙の本だけではなく、スマートフォンによって簡単に電子書籍をダウンロードして読めるようになったからである。

 紙の本だと、場所や環境、時間などに制約されるところがある。

 けれど、スマホによる読書は場所も時間も選ばない。

 スマホ一台があれば、そこが電車の中であろうが、外であろうが、家であろうが関係がない。

 時間さえも、あまり影響を受けない。

 夕方になってあたりが暗くなって紙の文字が見えにくくなっても、スマホはバックライトで鮮明に文字を読むことができるからである。

 しかも、どこまで読んだかもすぐわかる機能あるし、前の部分を読む手間も紙ほどにはかからない。

 ただ指先でスクロールすればいいからである。

 こうしてみると、読書はスマホの方がいいことずくめのようにみえる。

 ただ、違うのは紙の読書は面倒だけれども、その活字を読み、頭脳によって理解するという思考能力が養われる点がある。

 ただ眺めてしまう傾向のあるスマホとは、そこが区別されるだろう。

 そのほか、スマホはフェイクニュースにみられるような、第三者の目を通過しないための間違いなどの落とし穴もある。

 「灯火親しむべし」の読書の秋も様変わりしているが、その本質は変わりがないといっていい。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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