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舞踊についての自由な感想

 コロナ禍で、テレワークの仕事が終わっても外出がままならないので、どうしても、家の中で過ごしてしまう。

 オンとオフの切り替えが難しいのは、私だけではあるまい。

 といっても、もともとフリーライターという浮草稼業をしているので、インドア生活が多かったのが、それでも、多少あった人に仕事の打ち合わせで会ったりすることが無くなり、どう仕事で溜まったストレスを解消しようかと考えて本を読むのだが、なかなか集中できない。

 それで、パソコンに座ってだらだらとしてネット検索をしてしまう。

 もう一つは、運動不足のデスクワークのせいか、良くなっていたと思っていた膝が痛み、同時に悪くないもう一方の足にいびつな歩行をしていたツケがまわって、痙攣(けいれん)や引き攣(つ)りが起こり、歩くことが困難になった。

 歩こうとすれば歩けるのだが、片足を棒のようにしているので、杖を突いていても、2、3歩歩くと激痛に襲われる。

 しかも、足を曲げないようにして背中を曲げて歩くので、本当に腰の曲がった老人のようになってしまった。

 なので、外出が嫌になった。

 逃げ込む先はパソコンの画面。というわけで、ますます不健康な負のサイクルを繰り返している。

 とはいえ、引き攣りや痙攣は身体的異常なので、慣れてくれば少しずつ改善していく経験があるので、ただひたすら元の状態に戻ることを願いながら生活している。

 考えてみれば、デスクワークは精神労働であり、姿勢も座っているという状態なので、身心のバランスが崩れてしまうのは当然と言ってもいいかもしれない。

 「健全な肉体に健全な精神が宿る」ということを改めて実感している。

 そうした日々に、ユーチューブで見た光景が目に焼き付き、時間があると、その関係のサイトを見るようになった。

 そこで衝撃を受けたのが、舞踊のシーンだった。

 舞踊といっても、夏祭りに行われる地方都市の市民総出の踊りのパレードである。

 いわば、盆踊りのような地域の舞踊なのだが、その姿を見ているうちに、なぜか心の中に踊りの所作、リズミカルな太鼓の音、さざ波のような合いの手などが一丸となって、目から神経細胞のシナプスを貫き、脳細胞にパルスのように響いた。

 まるで、突然、眠りから目が覚めて覚醒したかのような戸惑いの中、カメラが流す画面を茫然と眺めていた。

 その舞踊は、「盛岡さんさ踊り2019」のパレード、その中でもミスさんさとミス太鼓がリードする踊りであり、コロナ禍になる一年前の映像である。

 私は踊りというものを嫌いではないが、盆踊りのようなものはあまり見ていない。

 仕事柄、見ていたのはバレエやプロの舞踊であり、また民俗芸能でも、洗練された芸術的な振付されたものだったので、盆踊りを見ると、楽しいのだけれど、それを芸術的な鑑賞の対象には考えたことがなかった。

 ただ、祭りの持つ、エネルギーの爆発のようなイベント自体は身体感覚が共振するようなものがあって、それにその他大勢の一人として参加したり、夜店を冷かしたりするのは嫌いではなかった。

 また、世界各国の民族舞踊が日本公演される時には、時々、見る機会があったことを覚えている。

 印象的だったのは、舞踊発祥の地インドの舞踊、トルコのイスラム神秘主義者の旋回舞踊、韓国の踊りなどだった。

 とはいえ、私の経験はごく限られたものなので、本当ならば、ここで何も言う資格はないのだけれど、自由な感想として述べれば、それぞれ奥深い精神性が背景に感じられて、様々な感慨を抱いたことは間違いない。

 異質という点でいえば、インドの舞踊(バーラタ・ナーティヤムだったかと思う)は形を空中に定着させ静止した瞬間の連続が踊りとなっていて、太古からの踊りにもかかわらず近未来的なメタリックな舞踊といった印象を受けた。

 抽象的かつ完璧なフォームだったので、そこから情緒的なものを感じることができず、何やら踊る壁画を見ているようだったことを覚えている。

 イスラム神秘主義者の踊りは宗教儀式でもあるので、拍手をしてはならないという事前の注意があり、ただぐるぐると旋回する沈黙の姿に息を飲んでいた。

 とはいえ、高度に技能が洗練され高められた舞踊は、その踊りの波動が見る者の心に波動となって伝播し、心の中の湖に石を投げたような波紋を起こしたことを忘れられない。

 このインド舞踊もイスラムの舞踊も、神と人とも関わりを色濃く残したもので、日本の秋祭りの収穫祭のような世俗的な側面を持つ踊りとはやや異なっている。

 韓国の舞踊は民俗芸能、サムルノリなどの農楽、シャーマニズムのムーダンの踊り、両班の踊りなど見たが、やはり人間文化財といった名人が踊る舞は、身体と精神の一致、調和といった境地、余韻を感じさせて忘れがたい。

 ならば、「盛岡さんさ踊り」に戻れば、世俗的な盆踊りという範疇に入るのだろうけれど、どこか他の日本の踊りと違って、土俗的な色調を超えて、一種の透明で洗練された所作が感じられて仕方がなかった。

 これは、岩手県が生んだ文学者の宮沢賢治に通じる透明さで、ユニバーサルな世界、極度に磨かれた洗練とレトリックさであると思う。

 宮沢賢治の童話を読むと、岩手県という地域ではなく、どこにも存在しない、けれど、どこかにはあるかもしれないイーハトーブが不思議な実在感をもって迫って来るのと似ている。

 その意味で、岩手県という精神文化が同じ東北であっても、他の県とは違う風土と文化を持っているのだろうかと思ったりする。

 どうもそんな気がしているが、あくまでもこれは私の個人的な感想であることを断っておく。

 ちなみに、「盛岡さんさ踊り」はその太鼓の打ち手の数の多さがギネスに登録されるほど数多くの人々が参加していることも注目されている。

 残念ながら、2020年はコロナ禍のために中止になってしまったが、今年はぜひ開催してほしいと願っている。

 あの太鼓のリズム、ミスさんさとミス太鼓のパレードは、本当に何度見ても、どこか引き付けられる魅力がある。

 何故だかわからないけれど、いつかきっと盛岡に行って、間近で、見てみたい気持ちになっている。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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