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時間が経てばゴミも文化?

 新しい年を迎える直前の2020年の年末、わが家ではゴミ屋敷?と化していた。

 というのも、年末の収集日を間違えて、大掃除をして溜まったゴミを持っていったら、既に年内の収集は終わっていたのである。

 これが普通の日だったらいいが、何しろ新しい年を迎える直前なので、心も身体も、そして住居も、まっさらできれいな気持ちで迎えたいと思っていたからだ。

 部屋の片隅に積み重ねられたゴミ袋を見ながら、夫婦そろってため息をついたことである。

 それにしても、なぜ生活をしているだけで、これほどゴミが出るのだろうか。

 改めて、文明が発達した現代という時代の消費社会の問題を考えこまざるを得なかった。

 日本は、近代以前、近世の江戸時代は、よく知られているように、リサイクルの社会だった。

 なんでも、二次利用三次利用が当たり前で、紙も貴重で、使用済みの鼻紙も書き込みした反故紙もくず拾いが集めてとことん利用した。

 着物も古着が当たり前で、贈答用の飾り物や商品もレンタルで貸し出しされ、それだけを扱っている店もあった。

 もちろん、海外からの貿易を封鎖した社会(とはいえ、一部交易はあったので完全な鎖国ではない)だったということもあったが、伝統的にそうした精神文化があったのだろうと思う。

 一時、有名になった「もったいない」精神は、こうした江戸時代における自給自足社会、ゴミを出さない社会が背景にある。

 とはいえ、とことん利用しようとしても、もはや再利用できないまでになったゴミはどうしたか。

 当時、世界的にも人口が集中していた100万都市と言われた江戸は、リサイクルをしても、最終的にはどうしても膨大なゴミが出る。

 それをどう処理していたのか、といえば、やはり水運を中心として舟で郊外に捨てていたようだ。

 リサイクルによってゴミをあまり出さない社会だった江戸時代に、日本を訪れた外国人の使節や商人は、街道などがきれに掃除されていたのに感嘆した話を書き残している。

 むろん、それは外国人のために事前に掃除したということもあるが、清浄を好む神道の影響もある。

 神社の境内に行くと、いつもきれいに掃除されているのは、そのような宗教的な動機が背景にあることは間違いない。

 ところで、年末、ゴミ屋敷直前になったゴミ袋を見ながら思ったことは、これが昔のものならば、かなり貴重なお宝になったのになあ、という負け惜しみの感慨だった。

 現時点では、ただの不要なゴミの塊であっても、歳月の洗礼を受けることによって、ゴミがお宝になる錬金術……それが考古学である。

 約1300年前の奈良時代の都、平城京の発掘では、当時捨てられたゴミを採集して、食生活や文化やその当時の生活を研究している。

 奈良文化財研究所監修『見るだけで楽しめる! 平城京のごみ図鑑』(2016年刊、河出書房新社)には、書き損じた木簡の採用した破片、欠けた陶器の破片に書かれた文字や絵、硯、筆、屋根の瓦、食べ残した魚の骨、雑穀、木の実、装飾品などが多数出土していて、それらを通して当時の生活のあり様がほうふつできるようになっている。

 ゴミであってゴミではないといった感じのこれらの出土品を見ていると、現在と過去という時間のはるかな隔たりはあっても、やはり同じ人間なんだ、という実感が迫って来る。

 学校の歴史教育では、年号ばかりを暗記した記憶があって、こうした庶民や官僚の人々の息遣いが感じられるものは少なくなかったので、新鮮な驚きがあった。

 確かに、捨てられた生活雑貨のゴミなどから、多くのことがわかってくることは間違いないが、それでも身近過ぎてすぐにわかりそうなことでも、ゴミが少ないためにわからないことがあるという。

 それは当時の人々のトイレだそうである。

 トイレの場所がなかなか特定できないのも、それが時と共に成分が分解していくためである。

 土の中に残っている食物の残留成分や当時の人々に寄生していた寄生虫などから推定はできるが、それでもいまだに(本が刊行された時点)特定されていないのである。

 もちろん、いくつかの推定場所の候補があるのだろうけれど、興味深い話であるといっていい。

 それにしても、要らないと思って捨てたゴミが、お宝になってしまうという歳月の働きは不思議である。

 何しろ、今なら軽犯罪法にふれてしまうようないたずら、古代の人が寺院などの建築物にした落書きも貴重な文化遺産となってしまうのだから。

 現代社会においては、多大なゴミを出すのが当たり前になっている。

 その捨てられたゴミは環境汚染をする原因になっていく。

 それを考えれば、ゴミを出さない生活、なるべくリサイクルして環境保護の意識をもって生活していかなければならない。

 地球環境は無限ではなく、有限であり、そのキャパシティが限界を超えてしまうのは、もはやカウントダウンの段階である。

 それだけではなく、エネルギーや食糧危機の問題もある。

 これらをどう解決するのか、それを解決すべき道筋を子孫に残していかなければならない。

 深刻に環境汚染に原因になっているプラスチックなどのゴミ問題は、もう待ったなしなのである。

 とまあ、ゴミ袋を前にして、そんなことを考えても埒が明かないのだが、かくして、我が家のゴミたちは、無事に?年を越したのであった。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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