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黄七福自叙伝「アジア連邦ということ」/「日本の治安が乱れたこと」


 

黄七福自叙伝27

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第2章 祖国が解放されたこと

アジア連邦ということ

左翼勢力は、アジア連邦と言う構想(夢)をぶち上げていた。中国を中心にして、朝鮮、日本という社会主義連邦がやがて出来あがるというものだった。

財政的にも相当の援助していたが、朝鮮人は気性が激しく、衝動的な暴力行為に結びつき易い性癖が逆手にとられて、革命の前衛隊として利用されたのではないかと思う。

朝鮮人は一様に、植民地政策に対する恨みを抱いており、日本をたたきつぶしたりするのに利用できるのは朝鮮人が一番有能だという心理分析がなされていたようだった。

そのため、日本共産党は朝鮮人を日本革命の前衛隊に使おうという魂胆もあったのだろう。

そういうことから、多くの朝鮮人が日本共産党に入党させられたし、勧誘も積極的に行われた。朝連の各支部にも申込書がきていて、賛同し、加入する人も多かったが、私は加入しなかった。

たとえば、民青幹部だったある人は、当時を振り返って次のように話してくれた。

日共幹部を警護することも民青の重要な任務で、ある日、川上貫一を警護した。いつものように民青の青年が先導していると、川上が、「石を投げろ」と指令した。

周囲は警察官が取り囲んでいて、彼らに石を投げろという意味で、完全な挑発だった。そのときは、さすがに石を投げる者はいなかった。

辺鄙な田舎へもよく行った。共産党候補者の選挙応援をするためで、そうした時は行きの電車賃しか支給されなかった。選挙中の十日間ほどは、食事から寝る所まですべて、その田舎でカンパして生活しろ、共産党に理解を持ってくれるシンパをつくれという命令だった。

そのため、あるパン屋では、例のごとく、共産党の主義主張を必死で宣伝をして、カンパを願うと、パン屋の主人は、「これを持って行って食べろ」と、パン一箱を寄付してくれた。

つづけて言うには、「私は、ソビエトから帰ってきたんだが、共産主義ってものはね、あんたたちが考えているようなそんなものではないよ」という話だった。

さらに、初めて衆議院議員に打って出た川上貫一の選挙を必死で応援した。一九四九年のことで、選挙事務所は阪急梅田駅の近くだった。

毎日、メガホン持って、路地という路地をシラミ潰しに歩き回り、「よろしくお願いします」と連呼した。昼も晩もなく、寝る時間もなかった。

そうした選挙運動が効を奏して、川上はじめ全国で三十五人の共産党議員が誕生した。この選挙でも、在日朝鮮人のカンパや選挙活動が 非常に大きく貢献したのである。

 

日本の治安が乱れたこと

アメリカ軍の占領政策は、まず日本の中央集権体制を解体することから始められた。戦前は、警察体制も東京(中央)の命令は即座に地方に伝達されたが、そうした体制がズタズタにされてしまった。

一九四七年の警察法により国家地方警察と自治体警察の二系統に分けられ、公安委員会制を採用し、地方分権的に改められた。

すなわち、五万人以上は市になり、市になると市独自の公安委員会を設置しなければならず、公安委員会が警察を采配した。小さい市では財政も小さいから、警察の規模も小さく、大きな事件が発生すると、地元の警察では手に負えないから、大阪府警に応援を要請することになる。

応援にいくと、その経費は全部、市が持たなければならないから、財政がもたないということになった。

だから、地方都市の治安は乱れに乱れた。この大いなる乱れは、全国的なものとなり、それは、革命の土壌が造成されたに等しい状況となり、破壊活動が各地で頻発した。

これはアメリカ占領政策の失敗の一つだったといってもよい。

そのとき、立派な指導者がいたら、日本に対してより効果的な活動が出来ただろうと思う。しかし、真の意味の民族指導者がいなかった。

後で気づいたことだが、朝連の指導者は共産主義者で、民族のことよりも赤化暴力革命が優先することだった。民族よりも主義が優先する赤化暴力革命の一環であったのだろう。

指導者が民族的な観点から、日本に対する恨みを計画性をもって一民族としての闘争に転換していたならば、もっと違った組織が出来あがっただろうと思う。

しかし、残念ながら、感情のおもむくまま、その場その場の運動を展開したから、あらゆるところで騒擾を起こし、暴力沙汰になった。

そうした騒擾が計画的なものであれば、それなりの説得力を持ち、占領軍の善処も期待できたかも知れないが、個々の次元でやったものだから、無頼漢にしか見られなかった。

極端な例が、闇米を運ぶように指示し、駅長がそれを断ると、その駅長を殴るというありさまだった。

そのころは日本人は朝鮮人よりも教育水準が高く、書くことを知っていたから、朝鮮人の横暴を書き記して、マッカーサー司令部や占領軍へ投書した。そのため、アメリカで一番大きな船に朝鮮人を積んで帰したいという発言まで飛び出す始末だった。

いたる所で感情による暴力が横行した。背後には共産主義者の姦計があったのだろうが、そういう無秩序時代のいたる所の暴動事件、暴力事件は朝鮮人が先頭に立っているようなイメージだった。

朝鮮人の信用が大いに失墜したということで、そういう無法行為が、進駐軍にしてみれば、「朝鮮人はこのままほっとけん」ということになったのだろう。


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