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多神教の日本の神々と渡来人

 

日本の神々を祭る神社は、どこにもあるといっていい。それこそ伊勢神宮や出雲大社といった巨大なものから、地域の氏神としての神社、また、道路や森や村のはずれに鎮座する祠(ほこら)など、大小様々な神々が祭られている。

この神々とは、いったい何を意味するのか。なぜ日本では、山川草木に至るまで、神がいると考えるのか。

八百万(やおよろず)の神というように、日本は多神教の国家であるが、それはまた、多くの神々を祭る豪族が各地に存在したということである。それらの神々と豪族を屈服させたのが、古事記・日本書紀に記された天孫族であり、そのことを記した神話が天孫降臨ということになるだろう。

多神教というのは、神々が多数各地に存在し、それを奉じた多部族がそれぞれ独自に割拠していたということである。その意味では、日本は多神教国家であると同時に多数の部族による連合国家であったということだろう。

その点では、日本は一神教の合衆国であるアメリカのような性質をもった多神教の合衆国であったとみることもできる。

少なくとも、古来から日本が純粋の単一民族だったというのは無理がある。ただ、単一民族的な神話を保持しながら、島国の特性を生かして、共同体として一つの民族のアイデンティティを育んできたことは間違いない。

神道が教義がなく、山川草木をも含めて神々に祭るのは、それらを通して平和な日本文化というものを作り上げてきた先人たちの知恵でもあっただろう。

それを神話から読み解くならば、出雲神話における大国主命(おおくにぬしのみこと)を中心とした神々の会議が旧暦の10月に行われるために、全国では神無月となり、出雲地方のみが神有月と呼ばれる習俗を考えればいい。

古代日本の神々の会議というのは、まさしく出雲が日本の古代文化の中心だった時期があり、それは渡来系の神々が日本にやってくる前の宗教的王国だったということだろう。

もちろん、学者の中には、この神無月というのは、語源的には「な」は「の」という連体助詞で「神の月」という意味で、神がいないという言葉ではないという意見もあるが、それは神話を単なる空想的な物語と見るからである。

神話をもとにトロイ遺跡を発見したシュリーマンではないが、神話は何らかの歴史的事実の反映である可能性があり、出雲で埋葬された多数の銅剣や銅鐸が、近年、発掘された事実を考えれば、少なくとも、この地方に巨大な王権があったことは間違いないだろう。

ただそれは、現在われわれが思うような近代的な国家というイメージと合致するかどうかは別問題である。発掘されたのが武器であるよりも、銅剣や銅鐸(どうたく)のような祭祀道具と思われるものだったので、宗教的国家、あるいは国家というのがふさわしくなければ、聖地であったとも見てもいい気がする。

出雲地方の王権は、天つ神と国つ神の両者の世界を行き来する素戔嗚尊(すさのおのみこと)と大国主命が王者として支配者となっているが、少なくとも素戔嗚尊には、日本書紀の異説に、朝鮮半島から渡来し、樹木の種をもって日本列島に渡来したというような記述があり、農業などの技術を伝えたと考えてもいいかもしれない。

具体的に、日本に稲作の技術がもたらされたのは弥生時代という説が近年、訂正され、稲の栽培は縄文時代にまで遡るという説が有力になった。その縄文人に稲作を伝えたのが素戔嗚尊や大国主命を中心とした渡来系の出雲族であったというのは考えすぎだろうか。

少なくとも、在来の縄文人と渡来人の弥生人が戦争をして戦ったという事実を伝える遺跡がほとんどないという縄文遺跡の発掘結果をみれば、縄文人と弥生人の共存と共生は、農業を媒介とした平和的な手段であったことが推測されるのである。

出雲大社には、出雲に日本各地の神々が集い会議をするというのは、男女の結婚・相性などを神々が相談するといった縁結びの会議であったという伝承があるが、これはその縁結びが縄文人と渡来人の仲立ちをすることであり、それは稲作農業と関わりが深かったのではないか。

神無月10月の会議がちょうど稲の収穫後の時期あたりであることも、また、そのあたりのことを類推させるのである。

古事記神話では、出雲の王権から大和朝廷への王権交代が、天上世界の高天原(たかまがはら)から、天照大神が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を地上に送る話として説明されているが、これは出雲の王権と大和王権が少なくともまったくの無関係だったのではなく、両者には早く来た渡来系と後から来た渡来系という側面があって、それが焦土戦争という全面的な革命戦争にならずに、局地的戦争で終わった原因ではないかと思う。

このあたりはまた、機会があれば記してみたい。

(フリーライター・福嶋由紀夫)

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