記事一覧

五月の風を感じて

 これを書いているのは、まだ4月末。けれど、強い日差しとカーテンをゆらす風を見て、なぜか五月を感じた。

 五月というのは、風薫る季節で、郊外にあふれる緑の勢い、そして、公園を照らす日差しにどこか強い生命力をひしひしと覚える季節だ。

 春の場合は、冬からの解放によって、氷が解けていくような緩やかな変化を視覚的にも体感的にも感じることが多い。

 冬からは解放はされたけれども、まだどこか油断できない緊張感があるといったらいいだろうか。

 野山の土から見える草木の芽から近い将来の希望のようなものを感じ取って、心が解放され、細胞が伸びやかなリズムを打ち始めるといった感覚。

 そのような春に対して、五月はもう夏の強い意思といったものが、水にも風にも空気にも土にもあふれてきて、それが身体を徐々に満たしていくのが汗や細胞から感じられるといっていいかもしれない。

 そうした皮膚感覚は、良い方に働けば、エネルギーが更新して、新しい生命の力が生まれてくる。

 しかし、逆に光が強ければ影が濃くなるように、生命力にあふれた季節は逆に、その増加がかえってマイナスに働きかけることがある。

 それが俗に言われているような精神的な落ち込み「五月病」というものかもしれないと思っている。

 なぜ生命力が外にあふれ出るような初夏の気候、五月あたりに精神的な落ち込みがあるのか。

 春の芽吹きから成長促進が加速されるのに、それがマイナスに働くのか。

 春から夏にかけては、季節の変わり目や新入学や新学期、新社会人としての第一歩など、新しいスタートを切ることが多いからかもしれない。

 緊張によるストレス、それまでのはりつめた神経が弛緩して、その反動によって、過去を振り返り、見つめなおすということに意識が向くことも考えられる。

 自然の横溢な生命力に対して、自分は成長しているのだろうか。

 もしかして、後退しているのではないか。

 そんな思いに駆られていき、それがやがて自分のマイナス面を強く意識させ、自然の摂理とずれてしまう。

 それが心身の不調を呼び起こす。

 人間の生活は人工的な都会生活によって自然の推移から隔離され、離れてしまっている。

 自然の移り変わりなどは、あまり意識しないでも、生活できるし、むしろ自然はイベントや花の姿などを通じて鑑賞していくものと思っているかもしれない。

が、DNAのレベルに刻まれている自然と結びついたDNAの警報が、そうしたずれに対して鳴り響くのではないか。

それが精神的な落ち込み「五月病」を発症する原因かもしれない。

いずれにしても、精神的な落ち込みは、自然とともに生きている人間にはそう訪れない気がするがどうであろうか。

 この「五月病」的な症状と、もしかすると、明治維新という西洋文明との出会いとその奔流の中で、生き抜こうとした幕末からの日本人の生きざまに共通するかもしれないと思ったりする。

 いずれにしても、幕末から明治にかけての激動の時代は、もう一度生まれ変わるような、劇的な体験であったことは言うまでもない。

 福沢諭吉などは、確か「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」というような言葉を吐いていると記憶している。

 それほど江戸時代から明治時代への移行は、もう一度生まれ変わったような劇的な体験であり、奇跡的な出来事であったということだろう。

 これはある意味では、宗教における「回心」といった経験ともいえるかもしれない。

 それまでの生き方を捨てて、神によって新しい自分となって、まったく別な生き方をするようになる。

 これは、まさに「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」という表現が当てはまる。

 武家政権の倫理的な規範を捨て、近代主義という新しい衣を着て生まれ変わる。

 そうした姿を福沢諭吉などは、はっきりと見据えていた。

 だが、そうできたのも、福沢諭吉が学問によって、武家社会の身分制度のような矛盾、能力があっても、高い身分でなければ認められないという現実に対する疑問を抱いていたからだろう。

 そのような見方を肯定してくれる西洋文明の近代主義は、福沢諭吉にとっては、救いであると同時に、これによって新しく日本を生まれ変わらせるといった使命感をもつようになったのではないか。

 西洋列強のアジアにおける植民地化の政策によって、日本もまたその餌食となって奴隷のような境遇に陥れられるかもしれないという危機感もあっただろう。

 そのような危機感を抱きつつ、新しい日本誕生のために、啓蒙思想を書物によって啓発しようと盛んに「学問のすすめ」などを出版した。

 それが多くの日本人に受け入れられたのも、徳川幕府の瓦解とともに失われていく儒教的な倫理観に変わるものを求めていたことが背景にあるといっていい。

 とはいえ、精神的に血脈の中に刻み込まれた伝統的な精神文化は、着物のように着かえることができない。

 そうしても、その生まれ育った時代の習慣や思考は、新しい思想と衝突する運命にあり、それをどのように折り合いをつけていくか。

 近代化の啓蒙家だった福沢諭吉でさえも、その矛盾を消化できなかったことは、晩年に書いた「瘦せ我慢の説」に如実に表れている。

 福沢は、幕臣として生き延びて、新政府に仕えた勝海舟や榎本武揚の生き方に対して批判したのも、そうした矛盾を抱えた自己自身の生きざまをどうしょうもなくなったからだろう。

 武士道とは二君にまみえず、その主君のために死ぬことをいとわない。

 そうした倫理観がある。

 なのに、日本を分裂させ滅びに向かうような戦争を食い止めた勝海舟の働きと能力をその功績は認めなければならないが、でも、納得できない自分がいる。

 幕臣としての徳川家への忠誠はどうしたのか?

 その倫理観からすると、勝海舟などは、実力を認めても心の中では許しがたい感情がふつふつと湧き出てくる。

 福沢諭吉自体、幕臣(陪臣)でもあったにもかかわらず、結構幕政批判的な思考を持っていた。それなのに、勝海舟に批判の眼を向けたのは、自己自身の内心に同じような矛盾を感じて忸怩としたものがあったからだろう。

 少なくとも、福沢のような思想家にとって、矛盾を見なかったことにして、新しい時代をそのまま生きることはできない。

 そうした生き方をふつうの武士や町人は、矛盾を感じただろうが、不平不満を言いつつも、日々を生きることに追われて、そうした矛盾を見まいとしてく。

 明治維新の文明開化をプラス的な面から見がちだが、この幕末・明治の過渡期こそ、精神的に見れば「五月病」のような光の影に当たるマイナスの時期であったかもしれないとふと思うのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

関連記事

コメントは利用できません。