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年を取るか取らないか マンガや小説の登場人物

 最近、昔読んだマンガのことを思い出したりして、感慨に耽っている。
 それは「金田一少年の事件簿」のことで、テレビドラマにたびたびリメイクされたからご存じの人も多いだろう。
 私にとっては、金田一少年は、KinKi Kidsの堂本剛のイメージが強くて、その後のタレントの演じたものは見ていない。
 一番多くのタレントや俳優が演じているシリーズものといえば、西村京太郎のシリーズ「十津川警部」ものや内田康夫の「浅見光彦」シリーズものだろう。
 それぞれ視聴者によって、贔屓の俳優があるだろうと思う。
 おそらく原作に一番近いイメージを持つ人物が推しの俳優になるが、それも原作を読んでいない人にはその時見た俳優が一番しっくり来るのではないか。
 ところで、大学卒業以来、あまりマンガを読まなくなった私だが、それでも、時々は目を通している。
 特に、近年はパソコンやスマホで、ネットマンガを見る機会があり、驚いたことがある。
 それは昔愛読していた金田一少年の続編、それも少年ではなく壮年となった金田一少年(?)のその後を描いているものを見かけたからだ。
 年齢は37歳で、しがないPR会社の社員という設定で、思わずクリックして読んでしまった。
 タイトルも「金田一37歳の事件簿」となっていて興味をそそられた。
 永遠の少年だと思っていたハジメ少年だが、ダメ社員として毎日を生活している。
 もう少年時代のような事件には関わりたくなくなっていたが、そんな彼に事件の方が近づいてきて、事件を解決しなければならないというストーリーだ。
 関心を持ったのは、この漫画や小説の登場人物には、年を取らずに停止した主人公や年を取っていく人物がいることだ。
 基本的にはマンガなどは年を取らない方向性があり、謎のスナイパーのゴルゴ13や浅見光彦、十津川警部あたりは永遠の時間の中で生きている(もちろん、役職が上がっていくという微調整がある)。
 それに対して、年を取る設定なのが、島耕作シリーズなどであるが、これは作者の意向が強く働いているというか、自分の分身である人物に、自分と同じような愛着をもって生きているかのように年を取らせるということがあるのではないか。
 そのことについては、詳しいことはわからないけれども、基本的には、作者が生み出した人物は、読者の期待を裏切らないように永遠に同じ年齢で、同じ身体的特徴と持ち、そしてタフで元気であることが条件になっている。
 読者の期待としては、やはりヒーローは永遠にヒーローであってほしいという欲求が無意識にあり、それが現実のように年を重ねて老化していくことには耐えられない。
 そうした読者の心理を思えば、むやみに主人公に年を取らせるわけにはいかないというものがあるだろう。
 それならば、なぜマンガや小説のヒーローの成長した姿、高齢となっていく姿を描こうとするのか。
 これは、先に述べたように、作者の創作意識が強く意向として働いているのだろうと思う。
 作者が生み出す登場人物は架空の存在であり、実際の人物ではない。
 それは前提になるわけだが、それでも、不思議なことに、作者の作った人物なのに、作者の手を離れて作中の世界で独り歩きをしていくということがある。
 そのことを明確に記したのが、鬼平犯科帳で有名な作家の池波正太郎である。
 池波は、鬼平犯科帳の登場人物の一人、手先の伊三次が途中で殺害されてしまうシーンを書いた。
 すると、伊三次の死に対して、読者からなぜ死なせたのか、という抗議が来たことについて弁明している。
 それは作者である池波でも、殺される場面を書こうとは思わなかったのに、伊三次の過去の事件によって、作者の手を離れて殺される方へと話が進み、作者であってもどうにもならなかったと言うのである。
 自分が作り出した人物なのに、自分の思うようにならないということをだが、それはやはり作り物であっても、その世界の中での論理、仕組みの中で、動いているということだろう。
 要するに、作者の手が作り出したものであっても、いったんその世界が動き出すと、作者の手を離れて自立してしまうということだろう。
 それだけリアリティーが作中の世界にあるということだが、この池波の嘆きは、またどこか聖書などに現れる神とその被造物との関係をほうふつとさせるものがある。
 要するに、世界を創造した存在、神であっても、創造した後の人間の行動をコントロールできなかったという創造後の堕落にも通じるものがある。
 いずれにしても、作者というものは、創造主のような存在であっても、生み出した世界をコントロールできない、ということがあるといっていい。
 ならば、作者の手を離れたヒーローがなぜ永遠の時間を生きるのではなく、年を重ねて高齢者になるという設定をするのかという問題はどうなるのか。
 これはいい意味では、作者とともに年齢を重ねることで、作中人物をコントロールできる、身近な存在として共感できるものとしていくという作者の意図や無意識な働きがあるのではないか。
 何しろ、若い時は自分もそれほど変わらない年齢なので、若者や少年の心や行動について書くのはそれほど難しくはない。
 自分が感じたことをそのまま作中に反映させればいい。
 だが、そうした共振できる時期は終わり、やがて少しずつズレが生じて来るのだ。
 40、50代の作者が10代の少年のことを書くのは難しくなり、やがて自分の中で違和感が生まれて来る。
 もちろん、同じようなことを書けばいいのだが、創造主である作者は、それに耐えられないことがある。
 もっと自分の年齢に合った人物を書きたい。
 あるいは、自分とともに年を取らせることで、家族や友人のような気持ちになっていく、といったものがあるのではないか。
 作者であっても、機械ではなく、生身の人間である。
 年とともに成熟し、考え方や感じることも変わって来る。
 そのような自分に等身大の人物を書きたいというのは、これもまた創造主たる作者の本性でもあるといっていい。
 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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