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小説や芸術創造についての一視点

 小説の作中人物は、作家が作り出した架空の人物だが、それが一旦活字で本になり、読者の手に渡ると、読者の脳内で現実的な人物へと投影されリアルな感動を与えるようになる。
 小説を読む人は、もちろん、現実の出来事ではない、現実の人物ではないと承知しながらも、小説という虚構の世界で展開される物語に一喜一憂する。
 そして、結末がどうなってしまうのか、と手の汗を握りながら本のページをめくっていく。
 もはや小説という世界の中で、作者の作った人物に振り回され、その運命を見届けるために一種夢のような時間を共有するのだ。
 これはエンターテインメントだと、あり得ないことだと認識しながらも、そうしたフィクションの世界に取り込まれてしまう。
 このような読書体験をする人は少なくないだろう。
 なぜ人はこのような活字が喚起する脳内のイベントとも言うべきバーチャルな世界に引きこまれるのだろうか。
 そんなフィクションの世界よりも、現実の世界の方が面白いのではないか。
 ドラマチックではないのか。
 活字が文章とという形態でそれを読むことで、目から入った情報が脳内で、新たなドラマが再構成され、そして、感覚的な快感や刺激を生み出す。
 それはある意味では、脳内における幻覚作用といってもいいかもしれない。
 このような活字や言葉が生み出す世界は、いったいなぜ人間にどんな影響を与え、何のために存在するのか。
 それは分からないが、本質的に人間がこうしたフィクションを好み、そこに様々な感覚的な刺激を受けるのは、何らかの意味があるからだろう。
 たとえば、人間は、生きるために食事をするのだが、それをおいしく食べるために、素材を煮たり焼いたりして料理する。
 それは、ただ単に生存を維持するために栄養を補給するのではなく、視覚的・感覚的にそれを脳内でおいしいという快感が伝わり、それが全身の細胞にさざ波のように伝わり、刺激することであるからだと思う。
 それと同じように、小説の中の世界は人間の精神にある意味では、豊かな想像力を生み出し、そして、それをみずから体験することで、精神的な成長をもたらしてくれるといっていいかもしれない。
 イギリスの思想家のベーコンだったかどうか、うろ覚えだったが、確か人が飢えているときに文学は無力である、といったことを述べていたのを読んだことがある。
 それは正論ではあるけれど、そうした正論は、物事を極端に対比させている面があり、正しいけれど、問題を簡略するためのレトリック、技巧的なものが感じられ、どこか違和感を覚えさせるものがある。
 人が飢えている時は、確かにパンが必要だが、それはある極限状況にすべての問題を抽象化させている、どこか嘘くさいイメージがある。
 本当のところは、飢えている時は文学であろうとなんであろうと、すべての問題が無力であるのだ。
 だが、人間は食が満たされれば、それだけでは満足できない。
 その次に生きることの喜びを感じることができる芸術的・娯楽的な欲望を持つ。
 生きることが食べることだけに終始してしまうならば、動物と変りはない。
 人間は文化生活をするという精神的な喜びを常に求めているといっていい。
 新約聖書に出て来るイエスの言葉「人はパンのみに生きるにあらず」というのは、まさにそのことを示している。
 イエスは続いて、神のみ言によって生きるという表現をしているが、それは神のみ言がパンという生命を維持するものよりも(パンも必要だが)、人間の本当の精神の糧であるということを意味しているのだろう。
 神のみ言というのは、人間の本質はパンという物質によって生きるのではなく、神のみ言(真理)を知らないと、本当の意味で生きる喜びを感じられないということでもある。
 そうした人間の現実的な生活と精神的な生活、それが芸術的な創造による喜び、エンターテインメントにも通じるものがあるのではないかと思う。
 歌や映画、小説、演劇などをなぜ好むのか。
 それは芸術が神のみ言に通じる精神的な糧を与えてくれるからであるといっていい。
 その意味で、人間がこれまで生み出して来たエンターテインメントは、ただ単に消費され消えていくものばかりではないのである。
 人類の歴史とともに、その大衆の営みとともに、その時代を彩った文化的な遺産であり、メッセージでもある。
 そこには、未来の平和な世界、愛と美と調和に満ちたメッセージが込められているといっていい。
 エンターテインメントのルーツにもなる秋の豊穣祭、収穫物を神に捧げ感謝する祭り、神楽などの演劇は、エンターテインメントであるとともに、宗教的な祭事でもある。
 その意味で、皆が神とともに喜ぶ祭りは、健全な精神を高め、共存共栄して共に楽しむためのものだった。
 だから、エンターテインメントは、善なるものが中心であったと言えるだろう。
 だが、それが個人主義的な芸術として発展してきた近代の芸術は、共生共栄という本来の人間の原点を忘れ、孤立的なものとなって、悪なるものを肯定する方向性も容認するようになったのは否めない。
 悪なるものと書いてしまったが、要するに、個人主義を通して芸術は人と人の絆、家族関係を破壊しても、自分個人の世界だけを構築し、そこに境界線、国境のような排他的な世界を作り上げた。
 人々と祭りのように喜びを分かち合う共同作業を否定するような方向性。
 それが芸術というものを痩せさせてしまったとはいえないか。
 単なる一過性の娯楽として消費するだけのものとなってしまったのではないか。
 やはりエンターテインメントは、本来は人々とともに平和を享受し、共に喜ぶことでなければならないと思うのである。
 作家が作品を通して、人々との共感や絆を求めるような平和な芸術が生まれることを望みたい。
 改めて、芸術は孤立した個人のためではなく、全体のために奉仕する平和で調和に満ちたものでなければならないと思っている。
 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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