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ふるさとというのは何か

 文芸評論家の小林秀雄の文章に、東京生まれであるために故郷がないというような表現があって心に響いた。 

 ふるさとは誰にでもあると思っていたから、東北から上京してきた私には、不思議なことを言うと思ったからだった。 

 たとえ東京であっても、そこで生まれたならば、そこがふるさとではないだろうか。 

 そういう思いがしていた。 

 だが、小林の言うふるさととは、生まれた所という意味ではなく、そこでふれた自然や人間関係、風俗や文化、そして、父母をはじめとした家族、先祖たちが眠っている土地、そんなすべてを含めて言うようだった。 

 確かに、東京は田舎にあるようなゆったりとした時間や人間関係、歴史といったものが感じられないものがある。 

 人工的で、そして、隣近所であっても希薄な人間関係、歴史的なものがあっても、それは代々維持されてきたというよりは、人が変わり、移動して来た人々の営みとともに変化している。 

 小林は、東京は文明開化の波にあって、不自然に発展してきたために、そうしたふるさとをイメージさせるもの、自然の風景、山や川、要するに童謡の歌にあるような「うさぎ」や「コブナ」などの生き物が不在であることもあるのかもしれない。 

 ふるさとというイメージは、祖父母がいて両親がいて、そして代々同じ土地に住んでいるというものがある。 

 東京には、確かにそうした自然はないし、流れる時間も速いし、長く生活する場所というよりも、一時的に生活の糧を得るために住んでいる場所、両親とは別居して核家族的な形態を取っているというのが普通だろう。 

 ずっと東京に住んでいても、住んでいるという実感も乏しいし、どこか異邦人のように感じてしまう面もある。 

 だが、一昔前ならいざ知らず、高齢化を迎えた我々にふるさとはあるのだろうか、と思うことがある。 

 生まれた場所として、しばらく青少年期を暮らした時期として、そこで出会った友人たちとの交流を通じて過ごした時間は確かにあるけれど、それだけでふるさとはあると言えるのだろうか。 

 もし、ふるさとが先祖の墓の眠る地、あるいは年老いた両親や親戚が住む地域だとすれば、住所としてはあっても、そこからよみがえってくる懐かしさや思い出は一時的なものに終わってしまうのではないか。 

 一時的に帰って、友人と歓談し、そして、その一瞬が過ぎれば、どこかよそよそしい風貌を見せるのではないか。 

 たとえば、私は長らく東京に住み続け、ふるさとへ帰るのは今ではほとんどないといっていい。 

 両親は既に亡くなり、墓ばかりが残されているが、なかなか墓参りに帰ることができないでいる。 

 そして、帰った時も、電車から降りて故郷の駅の改札口を通るとき、懐かしいというよりも、知らない場所に来たような戸惑いと不安に駆られてしまう。 

 それはもちろん、ふるさとが昔のままではなく、近代的に発展して、昔の面影がほとんどないということもあるだろうが、それよりも、昔の記憶につながるものが消えてしまっていると感じるのである。 

 両親の家はあるけれど、今は弟が継いでいるし、そして、親戚とも疎遠になっているところが多い。 

 冠婚葬祭といったわずかな絆も、事情があってなかなか帰れなかったこと、地元に友人たちがいなくなったこと、同窓会にも出席していなかったので、話し合う友人も見当たらないこと、ここ数年のコロナ禍などでますます帰れなくなったことがある。 

 もちろん、連絡すれば会うことができる友人もいるけれど、お互いに家族を営んでいることもあって、無意識に遠慮してしまう。 

 電話をしようとスマホを取り出しても、友人の家族関係や仕事関係など、お互いに会う時間をすり合わせるのも難しい。 

 子供時代のように何の遠慮や配慮もなく、会いたいと思えば会いに行くといった時代が奇跡的なことに思えるほど、時間の経過は恐ろしいほど距離を感じさせるものとなっている。 

 逆に言えば、それだけ表面的な関係で、親友と呼べるような親密な関係ではなかったと言えるかもしれない。 

 寂しいけれど、それが私を取り巻く環境であり、現実である。 

 この背景には、私自身が人との付き合いを苦手とし、なかなか心を開けずに、引きこもりのような生活をしていたこともあるだろう。 

 考えてみれば、ふるさとというのは生まれ故郷であっても、そこにたびたび出かけ、両親や家族兄弟、知人友人、親戚、そして、自然の山河にふれて、魂の交流を積み重ねていかなければ見知らぬ所のような場所になってしまうのではないか。 

 その意味で、墓参りに帰るというのは、本当は、自分の心の中にあるふるさととのつながりをよみがえらせるものではないだろうか。 

 習俗的、儀礼的にな気がするってしまっている墓参りも、たんなる慣習ではないような思いがするのだ。 

 そこには自分自身を形成してきた自然の魂とのふれあい、知人友人たち、親戚たちの背景にある父祖の魂、その思いにアクセスすること。 

 その思いが自分の中に入ることによって、自分の細胞に新鮮なエネルギーを再び注入するような行為となっていく。 

 そんな気がする。 

 われわれはどこから来たのか、何のために生きるのか、そして何処へ行くのか。 

 その答えを見つけることは難しい。 

 ただ、ふるさとという磁場は、そうした問いを受け止めてくれる場所のようなイメージがある。 

 もし、そうだとすれば、われわれはふるさとから帰り、再び東京のような都会で、新たなふるさとを作り上げることが必要なのではないか。 

 場所が問題なのではない。 

 そこに定着し、そこに家族を形成し、そこの地域の人々とつながるような人間関係を新たに築き上げる事、そして、平和に共に生きて共に喜びと悲しみを分かち合うこと、それこそがふるさとの意味ではないのか。 

 深夜一人で、パソコンの画面を見つめながらキーボードを叩いていると、そんなふうに思われるから不思議である。 

 (フリーライター・福嶋由紀夫) 

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