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現代芸術はなぜわからないのか?

 ある芸術を紹介するテレビ番組を見ていたら、最先端の現代芸術を紹介していた。

 芸術、特に絵画などを紹介する番組は好んで見ていたのだが、この時は番組を楽しむというよりは、頭の中に様々な思いが浮かんでは消えた。

 奇妙なオブジェや抽象絵画、デザインのような模様、幾何学的な線のアクロバット、そして、極めつけはごみのようなものが山盛りになり、あるいは意味が分からない映像を延々と流し続けている。

 評論家がいろいろ説明し、話してくれるのだが、その言葉さえ理解しがたい。

 ああ、ついに自分も最先端の芸術がわからない年齢になったのか、という思いと現代芸術はなぜ、このようにわからないのか、感動できないのか、という疑問が湧き上がってきて仕方がなかった。

 それで思い出したのは、文芸評論家の小林秀雄の言葉である。

 「近頃の絵は解らない、という言葉を、実によく聞く、どうも馬鈴薯らしいと思って、下の題名を見ると、或る男の顔と書いてある。極端に言えば、まあどういう次第で、さて解らないという事になる」

 (小林秀雄著『近代絵画』)

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 常に、新しい芸術というのは、前時代の常識的な教養に挑戦し、あるいは否定し、そして、のちに時間が経過することで時代が追いついて、認められ、賞賛され、時代の寵児となって支配的な芸術基準となる。

 そのことは、現代芸術で高い評価を受けているアメリカ的なポップアート、ロイ・リキテンスタインやアンディ・ウォーホルなどの絵画作品を見ればいい。

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 ポスターや写真、それこそアートというよりも、マンガ的な表現が世界の芸術シーンを支配している状態である。

 歴史的な美術史を振り返ってみても、モネやルノワールなどの人気の高い印象主義は、当時の美術のアカデミズムには受け入れられず、サロンや展覧会に出品されても、酷評を受けるだけだった。

モネ

ルノワール

 しかし、時代の経過とともに、印象主義は画壇の主流となり、今なお人気の高い絵画となっているのは周知の通りである。

 そのような歴史におけるプロセスを考えると、現代の最先端の現代芸術も時間の経過が過ぎれば、古典的な評価を受けるようになるのだろうか。

 それについては分からないが、どうも印象主義のようなことにはならないのではないか、という気がしている。

 それはむろん、芸術的な価値が下がるかどうかという意味ではない。

 芸術的価値は、時代によって変わるのは当たり前だが、そういうことで、現代芸術の価値が左右されるのではないか、ということを言っているのでもない。

 私が言いたいのは、現代芸術は絵画や彫刻、そして、様々な素材を用いた芸術という従来の表現形式や分野を超えたものになっているということである。

 それまで、絵画は神の創造を賛美する信仰絵画から、ルネサンスを経て、人間主義の時代になって自己表現の一部となり、自分の見たように、あるいは考えたように描き創造してきた。

 印象主義や写実主義が生まれたのも、信仰というフィルターではなく、みずからの思想や考えから表現したからだった。

 その意味では、芸術の対象となるテーマは人間であり、風景であり、静物であった。

 人間主義の解放と謳歌がその根底にあったと言えるだろう。

 しかし、絵画が芸術として自己表現の一分野から、社会や文明批評、あるいは人間の置かれている状況への政治的な批判や混乱、人を感動させるというよりは驚かせ、衝撃を与える起爆剤のように変化していった。

 これは、芸術が人間の自己表現であると同時に、その人間の立ち位置は、さまざまな社会のしがらみ、思想宗教などの複雑な関係性の中に生きているという存在様相が背景にあるといっていいだろう。

 人間の本質を描くとすれば、ただ個人の形態、姿を描くだけではその一部分を表現するだけになってしまう。

 絵画で人間を描くということが意味があったのは印象主義時代の個人主義が謳歌され、そして、神から離れた人間が主役となって表舞台に立ったからでもある。

 その時代においては、風景や人間の身体を自分の見たように描くことは、それだけで意味があったのである。

 全体的な人間存在を描き創造するとすれば、人間を取り巻いている社会、家族、国家、政治、経済、文化などを含んだ全体像、あるいはその一部を取り込んで表現しないと、ただの部分、パーツしか表現できない。

 現代芸術の方向性が、複雑かつわからない表現世界になってしまったのは、われわれが生きている時代がそれだけ複雑で不可解、わからない世界だからである。

 芸術作品がわからないのではない。

 われわれが生きている時代がわからない時代なのである。

 芸術家が自分の本質に直視し、向き合うことは、この複雑な時代の様相、そして、そこに生きる人間の本質を見つめることであり、それはキャンバスに絵筆で何かを描くということでは満たされない思いをもてあまし、最終的には様々な道具や手段で投げつけ、爆発させることである。

 それが現代芸術の側面であるということはできるだろう。

 わからないけれど、何か感じるものがあり、無意識にひきつけられたり、嫌悪したり拒否したりするのも、現代芸術が社会の複雑怪奇さの反映だからである。

 現代人は、印象絵画時代のような美意識では満足できない、複雑な美意識の中に生きている。

 美しいものもあるけれど、醜いものも、無機質なものも、思想的混乱、宗教的、政治的な対立と共存の複雑な中に生きている。

 そうしてみると、現代芸術は、病んだ現代人の意識をそのまま反映し、それ以上でもそれ以下でもないと見ることもできる。

 ならば、現代芸術が理解できない、わからないという感性は、世代的な感性の差のほかに、人間の精神の本質と関わっている問題といっていい。

 それを解決するには、もはや芸術分野だけの問題ではなく、人間のありよう、その本質を掘り下げ、新しい人間観、あるいは精神文化の再建、再創造という新しいパラダイムが生まれなければならないということでもある。

 その地点から平和な世界、平和な芸術、平和な人間社会が生まれ、新しい万人のための芸術が生まれることを信じたいと思う。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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