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桜に結実している日本人の精神形成

 桜の季節となり、これを書いている。おそらく、読まれる頃は、桜の時期ではないだろう。

 そう思いながらも、桜について書いてみたい気持ちがある。

 それだけ桜に対する思いがなぜか強くある。

 桜の不思議な魅力は、花の美しさという外形もあるけれど、それよりも、桜とともに生きて来た日本人の精神にDNAの中に息づいているといっていい。

 桜の名所は東京には数あれども、花見の宴会とは関係なく静かに楽しみたいと思うならば、近所の桜を見るに限る。

 上野公園のような桜尽くしの豪奢な一面の風景もいいけれど、一本の桜と心静かに対峙する時間も貴重である。

 人も大勢と語り合うよりも、心を許した親友や知人とゆっくりと話し合う方が心に滲みるものがある。

 特に、数十年から百年を超える桜だと、そこはかとなく人格のような桜の精神、そこで費やされた歳月の霊気のようなものが伝わって来る。

 どんな思いで、歳月を過ごしたのか。

 どんな景色を見て来たのか。

 そんなことを問いかけてみたくなる。

 桜は植物ではあるけれど、その問いに応えてくれるような気配がある。

 実際、真夜中、これを書いているのだが、心の思いは昼間に見て来た神田川沿いの桜の木のことが気になって仕方がない。

 ふっと魂がただよい、時空を超えて、神田川の闇にたたずむ桜の花びらがふわふわと空気を震わせて語りかけてくるような気がするほど。

 昼間は訪ねて来てありがとう。

 そしてさようなら。

 そんな言葉が聞こえてくる気がする。

なぜかわからないけれど、桜は人間の発声する言語器官とは別な器官を持っていて、それが見えない言葉をしゃべっている。

 そんな気がする。

 割合知られていることだが、日本人の詩歌のルーツである万葉集は、桜の歌よりも梅の花の歌を詠んだものが多い。

 詩歌を詠むという背景には、物事に接して感動するという心の動きがある。

 心が動くのは、通常の出来事ではなく、特別な事が多い。

 その意味で言えば、桜の花は基本的に日本固有種なのでふだん見慣れた花の一つであり、珍しいものではない。

 それに対して、梅は中国大陸からもたらされた外来の花である。

 珍しい花である。

 だからこそ、梅の花を万葉人は鑑賞して、心が動き、その花を歌にしようとしたのである。

 また、万葉集に梅の花を詠んだ歌が多いからといって、そのまま当時の日本人全体が梅の花を知っていたわけではない。

 やはり外来の特別な花であるがゆえに、梅の花を鑑賞できるほど生活に余裕があったわけではないのだろう。

 梅の花は普通の庶民にとっては、高嶺の花であったと見るべきである。

 一部の貴族、知識人たちが特別に庭に植え、鑑賞していた。

 そう考えた方がいい。

 梅はそんな舶来品、特別な花だったのである。

 しかし、桜はそうしたものではない。

 野山に当たり前のように咲いていた。

 だが、特別なものは見慣れて来ると、見飽きてしまうが、桜はそうではない。

 桜が野山に咲き、春の到来を告げ、そしてパッと散ってしまう。

 その短さが、かえってインパクトを与えてくれる花だった。

 平安時代になり、桜が歌の女王になって復活するのは、それだけ当たり前であって当たり前ではない花だったから。

 平安時代の貴族の文化というのは、そうした日本的な文化への回帰であり、ある意味では文化のリバウンドと見ることが出来よう。

 平安時代の在原業平(ありわらのなりひら)が桜の花を「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と詠んだことはよく知られている。

 世の中に桜の花が無かったら春はのんびり楽しめるのになあ、という詠嘆を含んだ歌である。

 背景には、桜は美しいけれど、花の開花の時期が短いので、長く楽しむことができない、せわしなくてのんびりできない。

 そんな意味になるが、真意はだからこそ桜の花はすばらしい花であるという逆説的な意味を含んだ技巧的な歌である。

 こうした暗喩や比喩、言葉遊びが平安時代の貴族文化であることも間違いない。

 平安時代は貴族文化、そして、国風文化と言われているが、その基本的な性格は華麗ではあるが、地についたものではなく、むしろ観念的な文化であるといっていい。

 限られた空間、閉ざされた貴族の世界だけで完結するような生活文化である。

 洗練された文化ではあるけれど、そこには地道に生活することによって生まれるリアリティーはない。

 言葉を磨き、いかに相手を感動させるか、というか驚かせるか、そうした遊びの精神が支配的な時代。

 それが平安時代の貴族文化であり、そこにあるのは観念的な生活による空虚さがただよっている。

 そうした美意識が桜の花のはかなさと結びついて、桜の花も、どこか地から離れた幽玄な世界の生き物のように感じられる象徴となってしまったと言えるかもしれない。

 桜の花を見ると、そこに生き物がもつ生命感、息遣い、生々しさが乏しい気がするのは、そうした精神的な背景があるからだろうか。

 ただ、桜の花びらは散り始め枯れ始めてから、生き物であることを示す茶色に変化する老化を感じさせる。

 その意味では桜はやはり「詩」と同時に「死」を感じさせる花である。

 仏教的な無常観に結びついて、生と死の世界の狭間に咲くようなイメージを与えるのも無理はない。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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