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農民俳人・小林一茶の生と死

 「やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする」

 「やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり」

 「われと来て遊べや親のない雀」  

 江戸時代の小林一茶(1763〜1828)は、芭蕉や蕪村と並んで有名で、庶民派の俳人として知られている。

 特にその作品に見られるような庶民的な感性は、芭蕉にも蕪村にもない世俗的で親しみやすいものがある。

 特に、世俗を詠んで世俗を超える境地を目指した芭蕉とは、まったく違った世界である。

 芭蕉は旅を旨として各地を漂泊したが、それは旅行や観光ではなく、いにしえの西行などの精神にふれる修行でもあった。

 俳句を単なる娯楽的な手慰みと考えずに、昔の人々の心を尋ねる精神的遍歴でもあり、俳句を芸術の一分野として完成させたと言えるかもしれない。

 そのあたりは、伊賀の武士出身だった芭蕉(忍者説もある)がもともと武士階級であったことも関係している。

 武士というものがほぼ完成した鎌倉時代の武士は、刀や矢を使って殺し合いをする修羅道を歩んだので、逆に生死を超えた禅宗などの仏教に救いを求めた。

 鎌倉時代の仏像が力強いメッセージ性を持って語りかけて来るのも、背景の殺し合いが常だった時代の殺伐とした空気があるからだろう。

 生きる意味、死ぬ意味を誰よりも知ろうとし、精神の安寧を求め、その手段の一つとして詩歌をたしなんだ。

 地獄や浄土というものが、死を媒介にして現実感をもって迫って来たと言えるかもしれない。

 その意味で、武士が死ぬ直前に詠む辞世の句や歌は、たんなる遺言ではなく、詩歌を通じて、自然万物へと自分が納得して帰っていくための覚悟でもある。

 おそらく禅宗の僧が臨終の間際に、弟子たちに残す遺偈(ゆいげ)に似たものといっていい。

 武士の末裔である芭蕉が、俳句に仏教的な悟りと通じる宗教的な境地を求道的に追求したのに対して、一茶はある面では、俳句は食うための糧、生きるための方便といった性質がある。

 俳句を通して精神的な高みを目指したわけでもなく、蕪村のようなインテリゲンチャ、アーティストとして、知識人の芸術的な創造と完成を求めたわけではなかった。

 蕪村の句や俳画には、こうした芸術家的な気質が感じられるといっていい。

 生活者として生きた一茶は、その点で、無宗教的な現代人には理解しやすい存在であり、共感を呼ぶところが多い。

 しかも、農民出身で、自分の居所を故郷に定め、俳句の添削をする宗匠になったものの、基本的には土地から離れられなかった。

 最終的には、故郷に帰り、義母と義弟と財産争いをして、裁判によって自分の権利を行使してもぎ取った。

 本妻の子としは当然のことだったが、一茶が故郷にいなかった間に(義母との折り合いが悪かったので父親が商家の奉公に出したという側面がある)、熱心に農業をして財産を増やしたのは、篤実だった義弟である。

 その意味では、故郷を捨てたかのように生きていた一茶が、突然、帰ってきて、土地や家屋の半分の権利を主張したことは、当然、義弟と義母にとっては不当であり納得のいくことではなかった。

 また、故郷の周囲の人々も、長年、土地を耕し村の人々とともに生きて来た義弟には親しみを感じても一茶には距離を感じていたに違いない。

 そうした周囲の思惑や感情を無視して、一茶はみずからの権利を主張し、無理矢理に奪い取った。

 こうした無慈悲ともいえる一茶の背景には、もちろん、自分を故郷から追い出した義理の母子に対する長年の恨みや高齢となって俳句だけで生活するのにはもはや疲れ果てたこともあるだろう。

 また、農民だった出自が土地家屋をもって土地で生まれ死ぬという農民の地道な生活を求める血が騒いだのかもしれない。

 大地の作物を育て、収穫してその糧によって生きるのが本当の生き方ではないのか。

 俳人という文化人のような地につかない観念的な生き方をすることは、その農民という出自からもできなかったのかもしれない。

 ここまで一茶を農民俳人という観点から書いてきたが、正確にいうと、一茶は農民出身ではあったけれど、農民の心で生きたわけではない。

 矛盾した言い方かもしれないが、農村で成長した一茶は農作物を自然の中で育てる中で青少年期の精神を形成をしたが、村を出てからは商家に奉公し、それも挫折し、俳人として身を立てるまで、江戸を拠点に各地の富裕なパトロンに寄宿しながら添削指導をした。

 その意味では、農民の生活は知っていたが、その後は、農民でも商人でもなく、また芭蕉や蕪村のようなパトロンに頼った生き方も出来ず(一茶の名声が上がったのは明治時代以降)、不安定な生活の中で、農民でもなく知識人でもない、中途半端な生き方をしてきたのである。

 一茶は、それまであまり詠まれなかったスズメやカエル、ハエなどの小動物や昆虫を題材として詠んでいる。

 それは一茶の庶民的な感性から小動物への愛情があふれていると理解されているが、考えてみれば、「やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする」「われと来て遊べや親のない雀」などの俳句に出て来る小動物は、農民にとっては作物を荒らす害虫のような存在である。

 スズメなどは、イネを食い荒らす鳥、ハエは果物や食べ物にたかり、何か悪いものをもたらす存在(といっても、当時は病原菌を運ぶ害虫といった医学的な知見はなかっただろう)と敬遠していたはずだ。

 その意味では、まさに、ハエやスズメは、故郷に受け入れられない自分の象徴であり、憎まれた同類といった存在だった。

 自分はどちらにも所属できないハエであり、親のないスズメであるという自覚が、こうした小動物への感情の移入を容易にさせたと言っていいかもしれない。

 もちろん、最終的には、一茶は故郷に住みつき、そこで生涯を終えるのだが、その晩年は決して幸福とは言えないものだった。

 妻をもらい、妻亡くし、再婚し、子供を亡くし、そして、死んでいった。

 それが幸福だったか、不幸だったのかはわからないが、晩年の俳句には、そうした一茶の覚悟と生きざまが象徴的に示されている。

 「これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺」

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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