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立花隆とパスカル 回心の問題について

 新聞などのマスメディアによく使われるものに「巨匠」や「巨人」という表現がある。

 主に、その分野のエキスパート、伝説的な存在に対する敬称と考えていいだろうが、時には過大な修飾語のように感じてしまうことがある。

 たとえば、かつての文学界では、「巨匠」「巨人」だけではなく、以前には、「文豪」だけでは飽きたらず、「天才」や「鬼才」(芥川龍之介など)を連発し、しまいには「小説の神様」(志賀直哉や横光利一)という表現まで、使われていたことを思い出す。

 文豪は明治時代の作家。夏目漱石や森鴎外などに使われていたが、現在の作家に、「文豪」などという過剰な表現は影を潜めているといっていい。

 それだけ、今の時代には一時代を画するような作家が存在していないということもあるかもしれない。

 そんなレッテルを張っても、いつのまにか流行や時代が変われば、一部の例を除いてあまり使われなくなったのは、ある意味では健全であるといっていい。

 マスコミの悪い癖だが、どうも分かりやすいように解説するよりも、インパクトのある見出しを好む傾向があるようだ。

 事実であろうがなかろうが、読者の目を引くように刺激的なレッテルを貼りつけるのだ。

 最近でも、よく使われていたレッテルに「巨匠」「巨人」がある。

 「知の巨人」という表現で、立花隆や佐藤優などに使われていることを思い出す。

 その「知の巨人」立花隆は、ノンフィクション作家として、知識量、宇宙、生命、臨死体験、脳科学、哲学、田中角栄の金脈問題、最新物理学や科学の分野で、驚くべき成果を挙げていることは間違いない。

 その意味では、「知の巨人」という表現もあながち大げさではないのかもしれない。

 ただ、「知の巨人」という表現によって、立花隆の本質が覆い隠されてしまう面も忘れてはならない。

 その立花隆は、クリスチャンの家庭に育ったが、神を信じるということはなかった。

 無神論者で、死後の世界はないと「臨死体験」の研究を通じて確信していたようで、「臨死体験」は脳の精神作用の結果であると述べている。

 もちろん、それは漠然とそう思っていたわけではなく、膨大な書籍の渉猟、研究、科学に夜アプローチの最前線を専門学者のインタビューやルポによって、その分析や追求によって得られた結論からである。

 そのために、「臨死体験」における科学者の研究のみならず、臨死体験者からのインタビューも収集し、その談話をそのまま提出している。

 その点は、公平な立場、客観的な立場を守っている。

 決して最初から、「神はいない」という結論があったのではなく、「いるか、いないのか」というテーマを抱きながら、学問的に実験的な研究をもとに結論を出している。

 この点では、学問の研究者や科学者が知的遍歴の末に、理論理屈に合わないものは存在しないという唯物的な立場になりやすい傾向と似ているといっていい。

 学者は知の探求の果てに相対的な価値観を持ちやすいことは、神の存在を信じているはずの信仰者が神学者として聖書の歴史的な研究の果てに、無神論的な考えに陥りやすいことにも通じている。

 研究すればするほど、科学的にはあり得ない間違いなどを見つけ、疑いの沼にはまってしまうのである。

 その意味では、科学者や数学者などの研究者は無神論者になりやすいといっていい。

 立花隆もその一人であることは間違いない。

 その点で、思い出すのは、キリスト教の神学者で物理学者、数学者であったフランスのブレーズ・パスカル(1623〜62)である。

Blaise pascal.jpg
http://www.thocp.net/biographies/pascal_blaise.html (file), パブリック・ドメイン, リンクによる

 パスカルは「人間は考える葦である」という名言でよく知られている。

 それが収められたのは『パンセ』という哲学的メモであるエッセーで、これは死後に発見されて出版された。

 パスカルは、科学者で数学者であるという点からも、キリスト教の信仰に帰依する前は、世俗的な欲望をもっていた。

 御多分にもれず、神を信じるということはなかった。

 「知の巨人」であったパスカルは、科学的な相対的な価値観から神の存在を疑っていたのである。

 むしろ、信仰者は世の道理、科学的な知見が乏しい無知蒙昧な人物が陥る錯覚ぐらいに思っていて、それとは距離を置いていた。

 その彼が、いかにして信仰者になったのか。

 そのあたりは、ドラマチックな神との出会いがあった。

 パスカルは、父の死後、財産問題で、妹が修道院に入ることを中止させようとしたことがある。

 パスカルは神の存在をそれほど信じていなかったので、妹が財産をすべて修道院に寄付しようとしていたのを阻止するために、合理的に神が存在しないことを妹に説得するために馬車で向かった。

 もし、妹が自分が修道院に到着する前に中に入ってしまえば、財産問題がすべてが終わってしまう。

 焦るような思いで、パスカルは馬を急がせた。

 その途中、川に架かった橋を通ったとき、突然、馬車が横転した。

 制限スピードを超えて走っていたのが原因だったかもしれないが、そのあたりはよくわからない。

 ただ、馬車がひっくり返り、パスカルは天地が逆になった馬車の中で、身体的には無事だったが、精神的な衝撃を受けた。

 この時、パスカルは人知を超えた存在にふれた気がした。

 考えても考えてもわからない未知の存在、それによって自分が変えられてしまったことを感じたのである。

 宗教的には、「回心」といっていいかもしれない。

 馬車から出て来たとき、パスカルはそれまでの無神論者から有神論者として生まれ変わたのである。

 パスカルは、この体験を一生忘れまいと、メモをして、生涯肌身離さずに過していたという話がある。

 こうした奇跡的な体験は、キリスト教の迫害者であったユダヤ教徒のサウロ(後に「パウロ」と名乗る伝道者となる)がイエスと出会って回心した奇跡的な経緯とどこか似ているものがあるといっていい。

 これから考えると、知の研究や積み重ね、理性からのアプローチから神を信じることは不可能ではないが、難しいということができるかもしれない。

 神からの啓示や「回心」という理性や知性では計り知れない体験がそこにはあるのだ。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

 

 

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