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現代日本人がかかっている健康という病

 先日、田舎に住んでいる友人から電話があった。

 ふだん、電話をしてくるようなタイプではなかったので、何ごとか、と思わず緊張してしまった。

 まさか、私の知っている友人の訃報ではないだろうな、と疑心暗鬼になった。

 というのも、高齢になった私の知人・友人から訃報がこのほど何度かあって、気持ちがやや後ろ向きになっていたからである。

 すると、ためらうような声で、「確か、前に膝を悪くして治療しているって言ってたよね」という言葉が出て来た。

 なおも、聞いていると、その友人もしばらく前から足が痛くなって、どうも我慢が出来なくなってしまっての相談だった。

 その友人は、アルバイトもしているので、歩くのが痛くて、大変だというのだった。

 私の場合は、膝の激痛で、ほとんど歩くことが出来なくなった時期があり、湿布薬を張って治療しながら、少し歩いて少し立ち止まって、長時間をかけて用事をすませたり、会社へ行ったりしていた。

 足が痛くて歩行困難というのは、なかなか人にわかってもらうことは難しい。

 杖を持って歩けるぐらいなら、大丈夫だろうと思われるからである。

 だが、痛みは歩いているときだけではない。

 横なっても眠れない、あまりの痛みに目が覚めてしまうということもある。

 そんなことを思い出しながら、病院に通った経験や民間療法の漢方薬に頼ったことなどを話した。

 少しは自分の経験が役立ってくれれば、という思いだったが、必ずしも、自分と同じような処置で治るかどうかはわからない。

 そんな危惧を感じながら、電話を終えた。

 若い時と違って、高齢者の肉体は金属疲労のような長年の積もりに積もった原因で、ケガや病気になりやすい。

 改めて、健康ということを考えさせられた。

 最近、読んだ本で印象に残っているのは、五木寛之著『健康という病』(幻冬舎新書)である。

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 2017年12月発行だから、今から5年ほど前の本である。

 五木寛之というと、現代日本を代表する作家の一人で、エンターテインメント分野で活躍し、人生論やエッセーでもベストセラーを出している。

 現在、90歳になる現役作家である。

 ウイキペディアでは、つぎのような紹介がある。

 「少年期に朝鮮半島から引揚げ、早稲田大学露文科中退。作詞家を経て『さらばモスクワ愚連隊』でデビュー。『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞受賞。反体制的な主人公の放浪的な生き方(デラシネ)や現代に生きる青年のニヒリズムを描いて、若者を中心に幅広い層にブームを巻き起こした。その後も『青春の門』をはじめベストセラーを多数発表。1990年代以降は『大河の一滴』など仏教、特に浄土思想に関心を寄せた著作も多い」

 『健康という病』は、この五木寛之氏の人生観、健康観が基層にあって、生きることの意味を説いたものである。

 割合よく知られていることだが、五木氏は病院嫌いで、切羽詰まっていなければ、身体の健康に関しては自然のままに放置するということだった。

 風呂に入っても、身体を洗ったり髪を洗ったりすることはせず、自然のまま垢が落ちることにまかせた健康法をしていた。

 そんな話は、五木氏の対談でも話されるので、そういう健康法もあるのか、と驚いたことがある。

 ただ、そんな健康法の背景には、五木氏の人生の体験が影を落していることは間違いない。

 戦争の朝鮮半島からの引き上げ体験があって、人が簡単に死んでいく、あるいは自分だけが生きるために他を犠牲にするような、むき出しの人間のエゴイズムを幼い頃から見聞きしていたことが大きいようだ。

 こうした体験によって、運命観、人間はなるようにしかならないという、ある意味ではニヒリズム的な人間観を持つようになった。

 病気も健康も、自分で左右することができるのは一部で、大きな運命の流れに逆らうことはできない。

 そうした自然の流れのままに生きることで、精神の安心を得て、また身体も長期入院するようなこともなく生きて来られた。

 それが五木氏の健康観だが、それが少し変わったのは、『健康という病』で示されたことだが、足の痛みにこらえられなかったという経緯がある。

 頭痛や腰痛というのも大変だが、特に人間を人間たらしめている歩行をするための足の痛みというのは、なかなか我慢できない。

 それで、ずいぶん長い間行っていなかった病院に出かけたという。

 そこで、発見したのは、病院が混雑し、いかに日本人の病気になっている人が多いかということである。

 高齢者だけではない。若者も少なくない。

 これは正常な状態ではなく、異常なことではないのか。

 そんな病院の状況を通して、五木氏は日本人は健康というものを極度に求めすぎているのではないのか、という疑問を持つようになった。

 少しのケガや病気で、自分自身の治癒力で治そうとはせずに、すぐに病院に行き、医師からの処方箋を求めてしまう。

 そして、多くのクスリを処方されて、安心してしまう。

 人間というものは、高齢者となっていけば、身体的にも衰えてしまうのはごく自然なプロセスではないのか。

 それが五木氏の人間観、健康観である。

 だからこそ、そんな身体的な金属疲労とともに、衰えた身体と同伴して生きていくことが本来の姿ではないのか。

 もちろん、手術が必要なほどの重度な病症であれば、病院に頼らなければならないが、それほどでなければ、自然治癒力にまかせていってもいいのではないか。

 そんなことを五木氏の著書は語っている。

 これは誰でも当てはまるということはないだろうが、少なくとも健康に対してはある意味で常識的な考え方といっていいだろう。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

 

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