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詩人・三好達治のことを思う

 あはれ花びらながれ

 をみなごに花びらながれ

 をみなごしめやかに語らひあゆみうららかの跫音(あしおと)空にながれ

 をりふしに瞳(ひとみ)をあげて

 翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり

 み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ

 廂(ひさし)々に

 風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば

 ひとりなる

 わが身をあゆまする甃のうへ

(三好達治「甃(いし)のうへ」―『測量船』所収)

 詩人というと、私が思い浮かべるのが三好達治である。

 初めて読んだのは、中学か高校の教科書だったと思うが、はっきりとはわからない。

 いずれにしても、私が詩というものに開眼したという体験を挙げれば、この「甃(いし)のうへ」であることは間違いない。

 その時のことはあまり思い出せないが、ただ言葉によってこれほどの鮮やかな世界を構築できるのだという衝撃があったことだけは記憶している。

 教科書のページに印字された活字から浮かんできたのは、古寺の春、そして満開の桜が降りしきる中を穢れなき少女たちが歩いていく風景である。

 まさに映画の一シーンのように、その情景が脳内に再現され、典雅で永遠の時を奏でているようなイメージだった。

 そのシーンだけを切り取ってみれば、通俗的でセンチメンタルなシーンと言えるだろうが、これを雅びなものに昇華しているのは、三好の使う旧仮名遣いの言葉の力である。

 平仮名の韻律に満ちたリズム感、それが流れるようなリフレインを通じて、音楽的な快さ、ゆっくり流れる時間を感じさせる。

 言葉と心象が見事に一致した詩だと思う。

 その意味では、三好達治という詩人に出会った国語の時間、学校の授業が幸福で貴重な時間だったことを改めて考えさせる。

 というのも、もともと、私の実家の環境は決して知的な環境ではなく、書棚もなかったし、親も本を読んでいるということはほとんどなかった。

 日本人の一般的な家庭だったと思うが、そのままであったなら、文学とは無縁な生活をし、そのまま大人になっただろう。

 それが変わったのも、学校での授業、特に国語などの時間で読んだ詩や小説だったのである。

 学校というと、勉強という強いられた苦痛の時間といったイメージがあるが、少なくとも国語を学ぶ時間は楽しいものだったことを思い出す。

 国語の教師も、もちろん、機械的に仕事だから教えているという人もいたが、中には情熱をもって教えようとしている人もいた。

 それらの影響も見逃せないが、ただ一番私の心に響いたのは、やはり教科書に載った詩や歌や小説などである。

 それを読んでいるだけで、日常という空間から別世界にトリップしてしまうような酩酊と喜びを感じたものだった。

 その意味で、学校の授業、特に国語の授業は重要であると思う。

 私のように国語の教科書から、文学の面白さや深さに目覚めた人は少なくないと思っている。

 それだけではなく、国語の教科書に載る作品も名作ぞろいだった。

 三好達治の詩だけではなく、万葉集の歌やその他の小説は、心の栄養となっただけではなく、生きる上での力ともなった。

Open old book close up

 まさに読書の効用といっていいが、ただ読書をすればいいのではなく、やはり名作、優れた作品を読むことが重要だろう。

 かつて地方に住んでいた時代、街に少なかった書店の一つに通ったものだが、そこの書店の本のカバーには、名言が刷り込んであった。

 イギリスの思想家・ジョン・ラスキンの言葉だったと思うが、「人生は短い。その中でも読書する時間はもっと少ない。そんな中で、つまらない本を読むべきではない」といった教訓が印刷されていた。

 本を開くたびに、その名言が眼に入り、私はそんな有益な本はあまり読んでいなかったので、叱られているような気分になったことを覚えている。

 本は楽しんで読むというのが私の方針だったが、それだけでは心の栄養にはならないことはわかっていた。

 だが、なかなか良書を自分で探すのは難しい。

 そうした経験からすると、学校の国語の教科書は、優れた作品が多数収録されているので、文学入門としては最適なテキストであるといっていい。

 おそらく私だけではなく、少なくない人々が、学校の教科書によって文学に目覚めた人がいるのではないだろうか。

 それほどかつての国語の教科書は、厳選された名作を載せていたのである。

 ところが、最近聞くところによれば、かつての教科書に載っていた名作が載らなくなっているという。

 夏目漱石や芥川龍之介など有名な文豪は載っているようだが、それらの一部の例外を除いて新しい現代の作家に変わりつつあるようだ。

 もちろん、明治時代の作家の作品は、現代人にはわかりにく表現や言葉遣いが多いので、よく鑑賞するには難しい面もある。

 それは仕方がないことといっていい。

 だが、そのような点はあっても、古典的な名作には、その世界を知ることができれば、素晴らしい内容と真実が内臓されている。

 それを学ぶことができないのは、本当に残念なことである。

 むろん、現代の作家や詩人、歌人の作品が悪いというわけではない。

 読みやすいし、風俗文化も理解しやすいだろう。

 今の若者には入りやすいかもしれない。

 そうした点は否定できないけれど、古典的な文学は、時間を超えた生きる上での精神的な知恵や魅力があることを改めて知ってほしいと思うのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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