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イソップ寓話 アリとキリギリスの改訳


 

イソップ寓話 アリとキリギリスの改訳

 毎年のことだが、夏を迎える度に、今年の夏は去年よりもことに蒸し暑いと、感じることが多い。

 これは「近頃の若者は」という古代から現代までの老人のグチと同じような慣用句のようなものかもしれないが(古代エジプトや古代オリエントの記録にあるそうだ)、客観的にみても、今年は特に異常気象という印象を受ける。

 今年は真夏日と猛暑と熱帯夜でトリプルパンチを浴びせられているようで、クーラーは欠かせない上に、朝夕に水のシャワーで身体を冷やさないと、気持ちがしゃんとしない。

 その意味で、今年はかなり猛暑の夏という感じがしてならないのである。

 だが、これは体感的なものと、テレビなどの報道や気象庁の例年の記録などの比較によって知覚や知識によって、そう思い込んでいる面がある。

 知識面では、二酸化炭素放出による温暖化現象が進んでいるので、地球全体が暑くなっているのだろうという思いがあるかもしれない。

 ただ、私個人としては、今年と去年の違いを暑さではなく、通過儀礼的な実感として言うならば、夏の虫たちの出現状況がやや去年とは違っているという実感がある。

 例えば、今年は蚊に刺されることが少なかったこと(暑さで発生が抑えられたという話もある)、そのほか騒音のようなセミの鳴き声が聞かれる時期が遅かったことがある。

 特に、猛暑にも関わらず、セミの声がなかなか聞けなかった。

 それまでは、夏の到来とセミの鳴き声はセットのように思っていたので、実に不思議だった。

 もちろん、しばらくすると、セミの鳴き声が聞けるようになったけれど、去年のような様々なセミの合唱というよりも、それぞれのセミ(アブラゼミ、ニイニイゼミ、ミンミンゼミなど)が音楽家のソリストのように、木々に密集するのではなく、一つの木に一匹のセミがしがみついて鳴いているという感じだった。

 セミが少ないせいか、去年、窓の明かりを目指してセミが真夜中に飛んでくるということもないし、公園などの明かりで、セミが真昼のように徹夜で鳴くということもほとんどない。

 実に静かなセミの音楽会で、少し寂しいほどである。セミの声は、日本人にとっては騒音ではなく、まさに、夏の風物詩としての自然の音楽であるといってよい。

 セミということで思い出すのは、古代ギリシアのイソップ寓話の「アリとキリギリス」という寓話である。

 これは、幼少時に読んだり聞いたりした人が多いほど、誰でもが知っている話だ。

 夏の間、毎日汗水たらして働きずくめのアリと毎日歌ったり踊ったりして遊び暮らしていたキリギリスが、やがて秋になって生活が逆転する。

 冬ごもりのために食料を貯蔵していたアリは余裕をもっていたが、食べるものが無くなったキリギリスはみじめな姿になってアリに食べ物を乞うが断られるというストーリー。

 働かざる者食うべからず、準備無き者は滅びるといった教訓話になるのだが、この話を読んで最初は何とも思わなかったが、やがて、違和感を覚えるようになった。

 一つはなぜアリはキリギリスを助けてあげなかったのか、という残酷な結末に対しての違和感。これは近代になって道徳的な改変をされた世界の民話や童話などの原型はかなり残酷なので、厳しい現実を教えるための教育であるという側面があるからだろう。

 もう一つは、アリとキリギリスという組み合わせに少し疑問を感じたのである。

 というのも、アリはほとんど年中いるが、キリギリスは夏というよりも、秋の昆虫で、しかも夏にはほとんど見かけないからだ。

 実は、調べてみると、もともとの話は、アリとキリギリスではなく、アリとセミだったらしいことがわかり、なるほどと納得した。

 アリとセミならば、夏の盛りに働きずくめとアリと短い夏の間ずっと鳴いている(労働ではなく演奏を楽しんで遊んでいる)というイメージの対比が明らかになるからである。

 なぜセミがキリギリスに替えられたのかは、ウィキペディアなどで調べると、要するに、ギリシアから北ヨーロッパ(アルプス以北)に伝えられると、植生や昆虫の生息状況が変わってきて、セミはあまりなじみがないので、なじみのある昆虫のキリギリスに替えられたとある。

 日本にやってきたイソップ寓話も、ヨーロッパ経由のために、アリとキリギリスになったのである。

 確かに、あまり身近にいないセミだとイソップ寓話のメッセージが伝わらないので、翻訳(翻案)するときに、キリギリスに替えて、その意味がよく伝わるようにしたということである。

 これは翻訳のもつ限界(民族的、国家的な文化風俗や言語の壁)を越えるための一種の改変であるけれども、それによって、その言葉がもっていた本来の象徴的な意味が平板化され、別な物になってしまう可能性も否定できない。

 アリが夏の過酷な暑さの中で働くから、その勤労の大変さと尊さが出てくる。これが秋だと涼しい中での労働だったとすれば、それほどすごいという感じはしないのである。

 また、セミにしてもそうしたアリの労働を見下しながら、真夏の暑さの中で、気楽に楽し気に歌を歌い踊っているから、冬の前に食料が尽きて死んでしまうという自己責任の重さが問われてくる。

 翻訳によって、そのような意味がやや薄れてしまっているのである。

 このような翻訳による改変というものは、仕方がない面があり、古代から中国の先進文化を受け入れて来た日本でも、外来の物を受け入れるにあたっては、かなり日本的な改変をしていることは間違いない。

 日本と韓国は、同じ中国の儒教文化圏に所属する国だが、韓国が官吏登用の試験制度である「科挙」や後宮を管理する宦官(男性機能を除去した官吏)を受け入れたのに対し、日本はこれらの制度をほとんど受容しなかった。

 それは、こうした制度を取らなければならないほど、大陸国家ほど多民族国家ではなかったということがある。

 日本は古代から考えれば、日本列島に海を通じて北や南から来た様々な渡来人による多民族国家だったが、日本という国家形成が成されていくにしたがい、全国的な均質化が浸透していって、「科挙」や「宦官」といったグローバルリズムの制度を受け入れなければならない状況ではなくなっていた。

 「科挙」という官吏登用試験が、異民族が同居していた中国で発達したのは、まさに儒教による知識や意識の統一のためであり、それを通して、漢族だろうが、その他の騎馬民族であろうが、同じ国家の一員として共生するための装置でもあったのある。

 その意味では、国家を超えてグローバルな認識を共有するということは、国同士の違いを見つめなおし、改めて両者の共通的を模索して、新しい関係を構築していかなければならない。

 「アリとセミ」が「アリとキリギリス」に変わっていった背景には、文化の平準化という側面があることを見逃してはならないのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)


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