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『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』 (8)牛窓

 

(8) 牛窓-通信使の対舞が唐子踊りに

 牛窓は、日本のエーゲ海。地元では、そのようにPRしている。宿泊先のホテルリマーニは海の傍に立ち、潮騒を聞きながら過ごせるいい場所にある。
 目指す朝鮮通信使の資料館「海遊文化館」は、ホテルのすぐそばにあった。ありがたいことに、旧牛窓町の教育長を務めた高橋重夫さんが案内に立ってくれた。退職後は史跡ガイドをしている。同館で挨拶した後、唐子踊りを紹介するDVDを鑑賞した。この踊りは、厄神社の秋祭りに奉納される稚児舞である。
 異国の踊りであることは、衣装からも分かる。赤と黄色、紺が目立つ服。帽子はカラフルな色合いで、瑞雲文様が描かれている。幼い踊り子は、顔に白粉を塗り、額の中央に朱で十字架を描き、下頭と目じりに少し朱をさしている。大人に肩車されて、会場に現れる。
 その由来について、神功皇后にちなむ説も伝承としてあるが、歌、踊りの動作、衣装に朝鮮王朝時代の面影はあるというから、これを詳しく探った教師・西川宏氏が朝鮮伝来、それも来日した朝鮮通信使との関連で裏付けた。
 海遊文化館は、牛窓と通信使の関係について知る資料が整い、街歩きする前に、いい勉強になる。その後、ただちに通信使高官が宿泊した法華宗の古刹・本蓮寺を訪ね、藩の重臣が通信使高官と交歓した謁見の間を見た。小堀遠州の作といわれる庭園も見物した。ただ、残念だったのは、通信使が残した書を見れなかったことである。寺の中を見物するにも、事前予約が必要で、当日直接訪ねても、中に入れない。牛窓の通信使史跡を訪ねる中で、本蓮寺は大きな位置を占めているが、それにふさわしい「おもてなし」の態勢がとられていないのは、寂 しかった。
「皆さん、いい時間帯に本蓮寺に来ましたよ。この先の高台から夕陽に映える港が眺められますから」。高橋さんの声に、三重の塔が立つ高台に急いだ。港町の夕陽は、まぶしかった。赤く染まる三重の塔は、なかなか見応えがある。

 朝鮮通信使の高官が本蓮寺に泊まったのは、1636年と1643年の2回。後は、池田藩主の別荘、御茶屋でもてなしを受けた。高官以外は、本陣や一般民家に分宿した。江戸へ向かい、 江戸から下向する通信使が入港する度に、民衆は宿を提供するために、仮住まいを強いられ、さらには労役も要請された。
 このように当時、沿道の民衆は異国の使節を歓迎する反面、嫌な思いも味わった。しかし、藩の儒学者にとって、通信使との筆談による唱酬は、大きな楽しみであった。藩儒の富田元真、小原善助、松井七右衛門(河楽)らが宿を訪ね、美酒を酌み交わし夜遅くまで交流している。
 通信使の製述官、申維翰は、「松井氏という人あり、河楽と号す。ときに年八十余。よく詩を吟じ、問うことを好み、いよいよ久しくして倦むことがない」。河楽こと、松井七右衛門は80歳を越えて、なお意気盛んだったことが分かる。彼にとって、通信使との歓談は終生の誉れであったに違いない。
 朝鮮の高貴な女性が乗った虚ろ船が流れ着いた伝説を聞きながら、その女性を葬るという祠も見学した。道筋に朝鮮場様という石碑が立っていた。訪れる人も稀であろうし、そのような標着伝説も忘れられていると思う。

 町歩きは、通信使が牛窓を離れ、東行する道筋となる狭い海峡を確認した後、ホテルへと引っ返した。途中、遊郭跡を見て、古宅が続く旧市街を歩いた。大きな屋敷が点在するし、白壁の蔵も残っている。江戸時代、大火もなかったのであろう、古い家並みは見事である。「牛転」という看板を掲げる喫茶店もあった。転と書いて、「まろぶ」とよむ。転倒する、ころぶという意味だが、これも牛窓の地名の由来の一つである。
 牛窓でも、勇壮なだんじり(山車=だし)が練り歩く。龍頭など見事な彫り物で飾っただんじりを格納する倉庫が、民家の一角にあった。ただ、祭りを続けるにも、曳き担ぐ若手が姿を消し、この存続に地区は頭を痛めている。牛窓でも、人口減、高齢化が顕著になっているという。

【ユネスコ世界の記憶】
・本蓮寺朝鮮通信使詩書(9点)=所蔵:本蓮寺 岡山県立博物館寄託

 

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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