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『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』 (4)赤間関(下関)

(4)赤間関(下関)-「朝鮮通信使上陸淹留之地」を建立

 朝鮮通信使が本州で最初に上陸した赤間関(現、下関市)。毛利藩が阿弥陀寺で高官たちを接待した。明治時代の廃仏毀釈・神仏分離で、同寺は赤間神宮になった。その際、阿弥陀寺の寺宝什器をはじめ通信使高官が詠んだ漢詩文も散逸し、行方不明となった。現在、水天門の脇に「阿弥陀寺跡」と刻んだ石碑、地名の阿弥陀寺のほかに、当時の様子を伝える史料は、赤間神宮に伝わる任守幹(1711年の副使)の詩文だけである。通信使の中・下官が宿泊した引接寺(いんじょうじ)を訪ねて、当時をしのびしかない。
 申維翰の『海遊録』には上陸時の有様が、次のように描かれている。
「夕暮れに赤間関の前湾に着いた。湾堤ははなはだ壮にして、一抱えもある木を数十、数百株と連ねて水中に挿して列べ、その上に白い板を鋪き、縦横それぞれ十余間、岸と平直にして寸分の高低もない。板上には浄席を敷き、まっすぐに使館にいたる」
 かつて郷土史家の前田博司さんは『下関民俗歳時記』『豊浦郡安岡村郷土誌』のなかに、下関にある住吉神社の行事として「唐人踊」が幕末まで演じられていた事実を発見した。さらに、通信使の童子から教わった対舞を、安岡脇浦地区が祭礼に再現したのが唐人踊の始まりだったことも確認し、長年の成果をもとに地元紙・長周新聞に連載(1996年6~10月)を掲載した。

 赤間神宮前に2001年8月下旬、「朝鮮通信使上陸淹留(えんりゅう)之地」と刻んだ石碑が建立された。戦時中から朝鮮半島から渡日する朝鮮人の上陸の窓口となっていた下関市には、関釜連絡船が行き来する姿はあっても、日韓交流の歴史を今日に伝えるモニュメントはなかった。これを残念がる駐下関韓国名誉総領事の井川克巳さん(同年9月3日死去)らが呼びかけて建立期成会を結成し、建立を目指した。市役所、市民、各分野の事業者、韓国民団のメンバーらが会員となって基金をつくり、記念碑建立にこぎ着けた。
 記念碑は高さ1・8メートル、幅5・4メートル。韓国・京畿道産の青御影石に、刻まれた「朝鮮通信使上陸淹留之地」。淹留とは高貴な人がその地にしばらく留まるという意味で、同市在住の直木賞作家の古川薫さんが命名した。筆は、韓国の金鍾泌元首相である。日本語、韓国語で併記された碑文を読みながら、「下関市で忘却されていた通信使が蘇った」と心のなかで喝采した。

 この記念碑建立に、ことさら感激したのは前田さんと朝鮮通信使研究家・辛基秀さんだった。1989年12月、長府博物館で開催された「朝鮮通信使展」での出会いをきっかけに、辛基秀さんの激励を受けて、前田さんの通信使資料の掘り起こしが始まった。下関市における通信使の足跡は不明な部分が多く、「下関市史」には下関市に立ち寄ったのは12回のうち8回(実際は11回)だったとあり、来朝の年度も誤って記述されていた。

【ユネスコ世界の記憶】
・正徳元年朝鮮通信使進物目録 毛利吉元宛=所属:山口県立山口博物館
・朝鮮通使御記録 (県庁伝来旧藩記録、13冊)=山口県文書館
・延享5年朝鮮通信使登城行列図=下関市立長府博物館
・朝鮮通信使副使任守幹 壇浦懷古詩=赤間神宮
・金明国筆 拾得図=長府博物館
・波田嵩山朝鮮通信使唱酬詩並筆語 (6点)=波田兼昭 長府博物館寄託
・宝暦14年朝鮮通信使正使趙曮書帖=長府博物館

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)  

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