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黄七福自叙伝「朝鮮戦争特需ということ」/「民団東住吉支部支団長のころ」

 

黄七福自叙伝30

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第3章 民団という組織のこと

朝鮮戦争特需ということ

六・二五動乱勃発の一カ月前、一九五〇年五月二十七日、建青を発展的に解散して在日大韓青年団大阪本部が結成され、初代団長に丁遠鎮、副団長に姜柄浚と文進景が選出された。

六・二五動乱は、一九五〇年六月二十五日から五三年七月二十七日の停戦まで三年余り続いた動乱だが、左派勢力の狡猾な宣伝によって、韓国側が仕掛けたようにされ、世論は韓国を悪者扱いにしていた。

実際は、北朝鮮が韓国に侵略した戦争であった。それは五〇年六月二十七日の国連安全保障理事会の決議でもはっきりしていたことだった。

この六・二五動乱という北の侵略によって、韓国は共産化される寸前だった。それを阻止したのはアメリカ軍を中心とする国連軍が朝鮮半島(仁川)に上陸し、参戦したおかげである。

そのため、アメリカ軍四万三千人が犠牲になり、韓国という自由民主主義国家を守ってくれたことだ。これは、解放後の歴史のなかで、私たちがもっとも恩義を感じなければならないことだ。

北朝鮮軍の突如の南進は、首都ソウルから大田を突破し洛東江へと、またたくまの進撃であった。一九五〇年九月十三日に国連軍の仁川上陸作戦が敢行されたのを機に在日義勇軍五百四十六人も参戦した。

大韓青年団の主導のもとに「祖国防衛指導本部」が設置され、在日同胞義勇軍が募られた。

大阪でも、一九五〇年九月初旬に民団大阪本部講堂で、壮行会が催され、”死して報国あるのみ”の決意で東京・朝霞の米軍キャンプに入隊し、一カ月間の軍事訓練をうけ、参戦したのである。

六・二五動乱(朝鮮戦争)は、日本経済に大きな特需をもたらし、戦後復興の起爆剤となった。「朝鮮特需が無ければ日本は農業国になっていた」といわれるほどであった。それに反して、祖国はさらに不幸を拡大した。

動乱勃発直後の八月二十五日には横浜に在日兵站司令部が置かれ、直接調達方式により大量の物資が買い付けられた。

その額は一九五〇年から一九五二年までの三年間に特需として十億ドル(一ドル=三百六十円、三千六百億円)、一九五五年までの間接特需として三十六億ドルと言われる。

戦地で使用される被服、軍用毛布、土嚢用麻袋、各種鋼管鋼材などの特需が主で、糸ヘン景気、金ヘン景気と言われた。一九五一年の法人税上位十位はすべて繊維業種であった。

さらに、一九五二年三月からは兵器生産の特需が加わり、車両修理、航空機の定期修理などが発注された。

日本経済に組み込まれている在日同胞企業も、動乱特需に沸きかえった。私の工場も再開することになり、昼も夜も操業しても追いつかなくなるほど忙しくなった。

その桑津町の工場は、一九五五年(昭和三十)ころに、千五百万円ほどで売却した。

 

民団東住吉支部支団長のころ

六・二五動乱が韓国・アメリカ軍優勢のなかで推移しつつあるなか、一九五二年三月、私は支団長に選出された。

選挙で選出されたように思うが、そのとき三十歳だったから、非常に若い支団長ということになった。

当時は解放後間もない時期だったから、民団組織にも若い人が多かった。

一九五三年か四年の五月ころに、私は支団長を辞めた。一、二年の在職であったが、以後は議長として支部の組織強化に取り組んだ。

この時期、中河内郡矢田村と同加美村が東住吉区に編入されたため、矢田村に設置されていた八尾支部矢田分団と加美村に設置されていた生野支部西南出張所が、東住吉支部の管轄下となり、二百世帯余の団員が増加した。

矢田地区には百世帯余の同胞が密集し、八尾支部八田分団のもとに李相甫を分団長として民団の灯を守っていた。

生野支部西南出張所は、五百世帯余の同胞が密集していた大芝地区に設置されていたもので、民戦との血なまぐさい攻防がしばしば演じられた。

一九五七年から一九六六年まで、再び東住吉支部の支団長を務めた。この間に、李東日を委員長とする「東住吉支部会館建設期成会」を設置し、二百万円の募金運動を展開した。

借地であった事務所敷地を買取る交渉を重ねたが、地主との折り合いがつかず、結局、裁判による調停が四年越しの一九六五年九月に成立、百十五万円で落着した。

これにより、旧事務所を解体して一九六六年五月に東住吉韓国人会館が新たに竣工した。

 

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