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黄七福自叙伝「戦略と戦術のこと」/「文世光事件のこと」

 

黄七福自叙伝42

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第4章 民団大阪本部の団長として

戦略と戦術のこと

私は毎日、左翼勢力との闘争を念頭に置き、朝総連を解散させるぐらいな力を持つという気持から、組織幹部らに、

「朝総連との闘争には常に戦略、戦術がなければならない」

と説いた。

そして、毎月一回、戦術・戦略会議を開き、必要に応じてデモを敢行した。そうした行動力が政府筋にも高く評価されていた。

いうまでもないが、戦略とは、戦術より広範な作戦計画のことで、敵と対応する味方の配置を的確に定めることであり、戦術は、味方の配置が決まれば、その要員が実際に闘う方法である。

最善の戦術と戦略は、戦わずして勝利することである。少数が多数と闘うときは、合法と非合法の闘いがあり、勝利の可能性がない場合は、非合法の闘いを展開するということになる。

二・二六事件や五・一五事件関係の右翼的な本やヒトラーの『わが闘争』などをよく読んだのも、戦略、戦術を学ぶためだった。要は、闘い、行動し、そして勝利するということ、これが私の基本的な考えだった。

そうした戦略、戦術の具体的な活動が、民団の大きなデモだった。

たとえば、金日成が北京へ行って「戦争によって統一する。残るのは統一、なくなるのは三八度線」と毛沢東に言って、北朝鮮の戦争の欲が前面に出たことがあった。

これに対して、戦略、戦術を考え、民団としてデモをやった。一九七五年五月のことで、中之島剣先公園で「総力安保大阪地区決起大会」を開くと、五万人という人が集まり、民団として大きな力を誇示できた。

 

文世光事件のこと

一九七四年八月十五日、ソウルの国立劇場で催された本国政府主催の光復節記念式典で、演説中の朴正熙大統領を狙撃するという青天の霹靂ともいうべき事件が発生した。

私が団長に就任して三カ月後のことであった。

朴正熙大統領自身は演台に身を隠し、難を避けたが、令夫人の陸英修女史が凶弾に倒れた。陸英修女史は頭部に被弾し、ソウル国立大学付属病院に運ばれて手術をうけたが死亡した。

国母の死に全国民が悲しみ、やがて憤怒に変わっていった。式典に参加していたソウル城東女子高校二年生の女学生も被弾した。

私は、中央公会堂で演壇に立って、光復節の慶祝辞を力説している最中に、総領事館からの伝言が耳打ちされた。「大統領の奥さんが狙撃された、緊急だ」というのである。

で、関係者を総領事館に召集し、情報を集めた。

狙撃犯は最初、日本人だということだったが、次第に、日本人のパスポートを所持した在日同胞だということがわかった。

在日同胞二世の文世光という青年で、あろうことか、大阪出身で、青年運動などを通じて、私もなんとなく知っている青年だった。

その背後に朝総連組織があり、組織的な犯行であったことが次第に明らかになっていった。

狙撃犯人はその場で逮捕され、ソウル忠武署に連行された。

取り調べの結果、大阪府泉大津市池浦を住所にする日本人、吉井行雄名義の偽造旅券を所持していた在日同胞二世の文世光(二十二歳、大阪市生野区中川町西二―九―四)と分かった。

文世光は、大阪市住吉区長居の成器商業高校を中退し、旧韓青生野支部の盟員として活動していた。

一九七三年に反国家的かつ反民団的不純分子の敵性団体である民団自主守護委員会大阪府本部が設置されるや、同委員会の事務局に所属した。

早くから朝総連生野西支部の金浩龍政治部長に抱き込まれ、朴正熙大統領を狙撃することを教唆された。

一九七四年七月ころ、大阪府泉大津市池浦に住む日本人の吉井美喜子(二十三歳)から、彼女の夫である吉井行雄(二十三歳)名義の旅券を入手し、日本人になりすまして同年八月六日に大阪空港から韓国に入国していた。

文世光が所持していたピストルは、同年七月十八日に大阪市内の南警察署高津派出所から盗まれたものであることも判明した。

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