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黄七福自叙伝「阪神教育事件のこと」/「朝連が解散させられたこと」

 

黄七福自叙伝28

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第2章 祖国が解放されたこと

阪神教育事件のこと

一九四八年(昭和二十三) 四月二十三日の阪神教育闘争のとき、私は、朝連東阿支部の委員長でもあり、民青の委員長でもあった。だから、私も青年らを連れて、闘争の場である大阪府庁前へ行った。

大阪城の前もみな焼け野原になっていて、二万人ぐらいが参集し、「学校を再開せよ」と要求した。 ウリハッキョ(われわれの学校)を守りたいという純粋な気持からの闘争だった。その闘争には民団は参加していなかった。民団と名乗ったら、殴り殺されるのがおちだった。

朝連は、民族愛、同胞愛、そして、解放の喜びで固まった組織であったから、それに魂を入れようとしたのが、ウリハッキョ(われわれの学校)、すなわち民族教育施設だった。校舎が建てられない時は、大きな家を借りて教えた。

そのときの民族教育というのは、金日成が神格化される以前のことで、純然たる民族教育だったが、しかし、一部には巧妙な思想教育があった。それを、GHQ(連合国軍総司令部)が危険視するところとなった。

その当時、ウリハッキョは全国に五百校以上、生徒数は六万人を超えていた。ところが、GHQの朝連に対する方針も「共産主義は歓迎せず」ということになり、日本政府に対し、在日朝鮮人が日本の教育基本法、学校教育法に従うように指令したのである。

そのため、日本政府は、一九四八年一月二十四日、朝鮮人学校の閉鎖と生徒の日本学校への転入を各都道府県知事に通達したのであった。

これに対して、朝連は、民族教育を守る闘いを全国で展開するよう訴え、朝鮮人の教育は朝鮮人の自主性にまかせること、占領軍から出される教育援助の物資の配給を朝鮮人学校に対しても差別なく行うこと、などを要求した。そして、朝連代表と各都道府県知事との交渉が各地で開かれたのである。

私には、ウリハッキョが思想教育をしているという意識はなく、ただそこでウリマルを習わなければならないという気持だった。しかし、そこでの反日的な教育や共産主義を美化する教育が、占領政策の目的違反ということで、問答無用の閉鎖令が出された。

そのときはまだ、朝連は同胞が寄り集まっている組織という意識だけで、左に傾きつつあるということは感じなかった。我々には上層部のやっていることはわからず、ただ命令に従うだけだった。

そのときは、舞台(演台)をこしらえるというのではなく、大型トラックの荷台のドアを下ろすと舞台になった。代表団五人(総勢十六人)が大阪府知事と交渉に行った。その間、私らはシュプレヒコールしながら、外で待機していた。

交渉は難航したようで、代表団がなかなか出てこなかった。とうとう大阪府知事が駐留軍 (大阪二五師団司令部)に電話したようで、高官がきて、代表団に三分以内に退去し、三万人のデモ隊を五分以内に解散させるように命令した。

進駐軍の命令は絶対だった。代表団が帰ってきて、トラックの演台に立ち、経緯を簡単に報告して、進駐軍の命令だから解散しようと言った。

すると、

「お前ら何を言っているか」

「まともに交渉もせんと、お前ら、引き上げるということは何ごとか」

という野次が飛び交い、代表団に石を投げ出した。

焼け野原には石ころがなんぼでもあった。代表団は難を避けるためトラックを発進して退場した。この石が、周囲の警察官らにあたり、思わぬ展開となった。代表団に対する不満が、予期せぬ方向へ暴発したのである。

待機していた警察の放水車からものすごい勢いの放水がデモ隊に浴びせられた。そのうち、 警察が発砲した実弾が飛んできた。

その流れ弾で、布施の中学校の男の子が頭を打ち抜かれて死んだ。金太一という名だった。

米軍のカービン銃の前に立ちふさがり、「撃つなら撃ってみろ!」と胸をたたく者もいた。

四月二十四日には神戸でも大規模な闘争が敢行された。

灘と東神戸のウリハッキョが強制封鎖されたのに抗議して、県庁前に三万人が集結、中には三田から六甲山を越えて歩いてきた者たちもいた。そのうち、県庁に乱入し、知事や米軍MPらを軟禁して交渉した。

知事は、閉鎖命令を撤回し、学校存続を承認、逮捕者の釈放などを誓約した。ところが、占領軍兵庫県軍政部が非常事態を宣言し、警察は米軍憲兵司令部の指揮下に入って、事態の収拾を図った。

これが日本占領期間中ただ一度だけの非常事態宣言であった。

『朝日新聞』号外は、「神戸など非常事態宣言 朝鮮人学校閉鎖問題に発端」と題して、そのときの様子を次のように知らせている。

 

兵庫県では去る十日朝鮮人学校に対し閉鎖命令を出したが、二十五日正午国警本部に入った情報によれば、朝鮮人側の強硬な反対運動により兵庫県知事は二十四日午後五時ついに閉鎖命令を撤回するに至ったが、そのため午後十時岸田兵庫県知事、吉川同副知事、市丸検事正、田辺次席検事、井出兵庫県警察長、古山神戸市警察局長らは兵庫県軍政部に呼ばれ同十一時非常事態を宣言され警察は憲兵司令部の指揮下に入った。二十五日は早朝から米軍憲兵ならびに日本警察官は相当数の朝鮮人を検挙している。

朝鮮人は、手当たり次第に検挙された。兵庫県警察本部の記録によると検挙者は千七百余名となっているが、公安資料によると二十五日から二十九日までの間に、朝鮮人・日本人合わせて七千二百九十五名もが検挙されたというから、まさに占領軍による「朝鮮人狩り」であった。内二十三人が軍事裁判に回されたという。

 

朝連が解散させられたこと

一九四七年(昭和二十二)、アメリカのトルーマン大統領は「共産主義封じ込め」を宣言し、資本主義(アメリカ)と共産主義(ソ連)との「冷たい戦争」の構図が増幅された。

これを受けて、日本はアジアの反共の防波堤にならなければならなかったのである。

一九四九年(昭和二十四)は、戦後日本のエポックの年といわれる。一月の衆議院総選挙では吉田茂の民主自由党が二百六十四議席で第一党となり、共産党は三十五議席を獲得した。

三月にGHQがドッジ・ライン(超緊縮財政政策)の実施を要求し、デフレと不況が深刻化した。五月に入ると、人員整理(解雇)が始まり、これに反対する闘争が全国で展開された。

解雇された国鉄労働者らが集団で首都圏に流れ込み、また、国鉄労働者が管理する「人民電車」が走るというありさまで、共産党内部では「九月革命説」が公然とささやかれたという。

この時期、ソ連は、中止されていた抑留者の送還を突如再開したことから、「革命万歳!」と叫ぶ引揚者が帰還し、革命予備軍となった。

六月には福島県平で朝鮮人を中心とする共産党磐城地区委員会のデモ隊が警察署に乱入、一帯を人民管理に置いた。七月には国鉄総裁下山定則が轢死体で発見された。

中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、東北本線では列車が転覆した。これらの事件では共産党員らが犯人として逮捕された。しかし、その真相はいまだに謎のままである。

こうした状況のなかで、一九四九年九月八日、朝連に解散命令が下され、金天海をはじめ朝連幹部多数が公職追放となったのである。朝連のほかに、民青も解散させられ、民団宮城県本部、建青塩釜支部も解散ということになった。

これは、この年の四月四日に公布された団体等規制令の初の適用であった。

朝連の解散は、日本の世論が拍手喝采したといってもよかった。

『読売新聞』九月九日付の社説は「朝鮮人連盟への解散命令」と題して、次のように論じている。

 

終戦後わが国民は卑屈すぎるほど卑屈になっていた。第三国人の暴行脅迫にたいしても、いわゆる長いものに巻かれろというような調子だった。(中略)

このたびの解散事件で、あるいは日本人と朝鮮人のあいだに、誤解が生じたかも知れない。だが、いわゆる雨ふって地かたまるである。われわれはこれを動機として、日朝間の平和的民主的勢力が、より一そう強固に結びつくことを期待するものだ。反民主的暴力主義的団体が一 掃されることは望ましいことである。しかしいやしくもこれを口実として、憲法の保障する集会、言論の自由が侵されてはならない。

 

『朝日新聞』も一面トップに「朝連など四団体解散、幹部三十六名は公職追放」と題し、尹僅と金天海の写真を入れて大きく伝え、「朝連や民青の活動は、暴力的傾向をもつ団体と認めざるえないこと、これはいうまでもない」と断じている。

『毎日新聞』も同様であった。

その他の新聞雑誌も、当局の処置に絶対的な賛意を送っているのである。

朝連が解散となって、財産没収やレッドパージという制裁を受け、朝連の幹部がみな追放された。東阿支部の会館も没収され、日本政府のものになった。

このとき追放された朝連の幹部は、金天海のほかに、曹喜俊、李民善、許準、金英敦、尹僅、 韓徳鉢、申鴻是、金民化、姜信昌、李心喆、金四哲、韓宇済、金逢琴、金明福、文斗玉、金鑒相、崔民煥、慎政範、朴柱範である。

また、民青からは、南廷揚、金永昊、李英一、趙宗泰、梁民渉、李泰権、李瑛文、安民植らである。

金天海は、北朝鮮に帰ったということだが、その後の消息では、新義州の市長をやっているという噂だった。

そして、金天海と朴恩哲は勝湖里にあった政治犯の強制収容所に収容され、そこで亡くなったという。

知る人ぞ知る存在だったが、宋性徹というものすごい雄弁家がいた。三十代だったと思うが、この人も北朝鮮に帰って消息不明になった。粛清されたのだろうと思う。

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