
金仁淑常任顧問の活き活きとした文化芸術活動のお話を伺い、コーヒーショップで内容を整理していたら、いつのまにか8時間が過ぎ去り、あたりはクリスマスイルミネーションが輝く時間となっていました。
文化芸術活動にまつわるエピソードや愛国話、そして母のような愛を感じて、私は感極まり、ぽっとほおを赤らめ、一筋の涙が光りました。
「常に頭を下げ、謙遜にしていたら、歳月が過ぎ去ったよ」と言う金常任顧問の心を感じさせる一言が浮びます。今回のインタビューのなかに、今この時代に私たちが探している宝石のようなメッセージが込められているのではないでしょうか?
東京慶尚北道道民会婦人部常任顧問 金仁淑

韓日親善のために自問自答
私は、品川民団婦人会会長を1994年5月から2000年9月まで務めさせていただきました。その時のお話をいたしますね。会長に就任して、「何か良いこと、意味あることをしたい」と考えるようになりましたね。
「日本の地に来て住んでいますが、少しでも地域住民と在日同胞が一緒にできることがないだろうか?」
「政治家たちは政治を、私たちは民間人として政治を離れて、文化芸術として接していったらどうだろうか?」
その結果、ハングル、書道教室、チャンゴ教室、韓国舞踊、料理教室、オリニ教室などを始めるようになりました。また、地域住民を民団事務所に招待し、民団が本国同様、在日同胞の区役所の役割をするところであることを説明する機会も持ち、自然に地域住民との距離が縮まっていきました。
私の所属する品川民団は在日同胞が中心ですが、特別会員で希望する日本の方も受け入れております。共に芸術イベントも開催致しました。その1年間は、イベント準備、婦人会、仕事、広告募集、衣装など、すべての事を準備するため、1日3時間以上、寝た事がないほど忙しかったですね。しかし、私がこのように行うことができた事は幸福でしたね。
東奔西走した日々
特に心に残っているのは、1997年11月に開催した「韓日親善文化交流の夕べ」というイベントで、張相徳実行委員長(当時:在日本大韓民国民団東京品川支部団長)と髙橋久二品川区長様が共に始めた民間外交ですね。
場所はきゅりあん大ホールで、1700枚のチケット・招待状を刷りましたね。開催までは、張団長と今は故人になられた元・品川区議会議長の菅家秀夫先生のご苦労が大きかったです。この場を借りて、品川区議会日韓親善議員連盟の先生方に感謝申し上げます。私は、この文化芸術活動を通じて、韓国と日本が1つになることができた実感を持ちました。その時の利益金の一部は、品川助け合い募金に寄付致しました。
子どもたちに勇気を
これは後日の話です。いじめで不登校になった小学生が私たちの韓国舞踊教室に来て、婦人会の皆さんの協力によって、問題解決に至るようになったことがあります。私はその子に「あなたが一番上手なことで、みんなにできないことをすれば良いよ。あなただけができるということを見せてあげよう」と励ましましたね。その子は学校で、1人で韓国舞踊を発表し、その後は明るくなって、立派な社会人になったそうです。私たちの活動が、1人の児童の将来に希望を与えることになったのです。
舞踊家の故・金靖鸞先生との出会い
私たちが文化活動をできるようになったのは、故・金靖鸞(キム・ジュンラン)先生のおかげです。金先生は、5歳から舞踊を始め、ソウル芸術高等学校 舞踊科、梨花女子大学舞踊科を卒業されました。殷芳草(ウン・バンチョ)先生の弟子であり、優れた舞踊家です。私たちのために、自分が持っている全てのことを教えようと、無報酬で2年間にわたり全力投入されました。
前述の「韓日親善文化交流の夕べ」の成功も不登校児童の解決も、金靖鸞先生の隠れた功労が大きいですね。多くの苦労と奉仕をして下さった先生のために何か恩返しできる事はないかと計画した行事が「金靖鸞グランドステージ ’99」でした。殷先生も招待し、賛助出演していただきました。 この時、協力した金靖鸞後援会は、菅家先生が会長で、区議の塚本先生、川越氏と私が副会長、そして坂井氏が総務を務めました。イベントには約700人程度のお客様が参加し、盛会となりました。菅家先生も髙橋区長も、今は故人となられましたが、改めて感謝を申し上げます。
プッチョ・ハルモニ(仏様)
私の家の家訓は「明るく正しく一生懸命生きよう」です。この言葉を常に大事にしながら、残りの人生も「ために生きる人生」を生きたいと思います。私がこんな気持ちになったのは、実家の母の影響が大きいと思います。母は8人の子どもを育てながら、更に2人の孤児まで助けていました。ある人が道端に紙クズ1枚を捨てた時、普通の人なら、同じように捨てるかもしれませんが、母は「私1人でも拾って行こう」という考えで生きていました。「あの人も守らないのに私がどうして守るのか」ではなく、「百人がしなくても私1人でも正しく生きよう」。それが私の母の教訓でした。また、私たちが知らない間にも様々な奉仕活動をされ、近所から「プッチョ・ハルモニ」と呼ばれていました。
私たちが幼い頃、母は子守唄で独立運動家たちが歌っていた歌や、幸せで平和な歌を歌ってくれました。私は今でも母の子守唄を口ずさみながら、懐かしく思い出しますね。最後にですが、全世界の母たちによる正しい教育が世界平和へ向かう道と信じてやみません。