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黄七福自叙伝「大阪日韓親善協会設立のこと」/「選挙応援のこと」

 

黄七福自叙伝61

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第4章 民団大阪本部の団長として

大阪日韓親善協会設立のこと

真の親善は国民的次元での親善がなければならないというのが、私の持論だった。

ところが、日韓両国は国交正常化になっても、国民的次元での親善関係が進展しているとも思われなかった。

在日同胞の法的地位問題も不十分だったし、一〇〇パーセント希望通りに行くことは期待できないにしても、日本政府に対して、同化反対、差別反対、強制追放反対ということは、在日同胞だけの声ではなく、日本人と共同して訴えていく必要があると痛感した。

だから、国民的レベルの日韓親善協会を設立しなければならないという気持から、私は積極的に動いた。そして、大阪日韓親善協会の結成大会が一九七六年六月、ロイヤルホテルに約一千人が参集し、盛大に開かれた。

会長候補は、大阪商工会議所の会頭で、近鉄グループの総帥だった佐伯勇だった。が、当時、韓国に進出した企業は、中共(中国)に進出できないということになっていて、それが、引き受けられない理由となった。

で、副会長に中山正暉衆議院議員、比嘉正子関西主婦連会長、黄七福民団大阪本部団長を選出し、理事長に大西保三郎大阪市議会議員を選任した。比嘉正子は、ダイエーの中内功が都島でやっているときに一緒にいた人だった。

関西財界の大御所は住友化学社長で土井正治だった。で、西宮の別邸などに行って懇請し、推薦されたのが、大谷一雄だった。住友化学の元社長で、国民政治協会大阪支部長をしていた。

この人、大西保三郎は、応援した人が国会議員に落ちたとき、自分の責任だと言って、天満神社の前で、出刃包丁で指を落としてしまったという豪傑だった。こんな人がいるのかと、私は驚くほかなかった。

最初、副会長という役職で、会長代行、会長となり、大丸や関電など関西を支える企業から賛助金を集めてきて、財政確保に努めるなど、日韓親善協会のために大いに貢献した。

結成二周年記念特集号として発行された一九七八年の『大阪日韓協ニュース』第二号に、私は、民団大阪本部団長、同協会の副会長として、「強い団結こそ民主主義を守る道」と題して、次のような一文を載せた。

 

歴史的にも地理的にも最も近く関係の深い韓日両国は、自由と民主主義を擁護すべき重要な役割を担っております。

日本のマスコミはベトナム戦争を「解放戦争」と騒ぎたてましたが、果して解放されたでしょうか。ベトナム、カンボジアにおける何万人もの虐殺、荒波にもまれながら小舟に身を託して自由を求めてくる難民の悲惨さは「解放」の答えが何であったかを示しております。

人類の中でこのような不幸がどこにあるでしょうか。ベトナム、カンボジア、北朝鮮、中共、ソ連等共産主義体制下に自由はありません。韓日両国は自由がありすぎてその有り難みが分らないのです。

この自由を守るために、共産主義者の侵略を阻止しこれに打ち勝たなければなりません。飛鳥田社会党委員長と北朝鮮金日成との共同声明を読んだとき、日本の野党ではなく金日成の手先であり、北朝鮮の与党であるとの感がしました。

これは平和統一の協力者ではなく、韓半島を武力赤化一し日本の共産化を狙う金日成の政策に服従した、社会党飛鳥田といわざるを得ません。

大阪日韓親善協会結成二周年にあたって、在韓米軍の撤収論議に代表される米軍のアジア離れの情勢の中で韓日両国は友好親善関係をより以上に強め、未来における強い団結こそが両国民の望んでいるものであり、自由と民主主義を守る道であると強調するものです。

 

一九八〇年九月五日、大阪日韓親善協会主催の講演会で、同協会の常任顧問としての「韓国の現状とこれからの日韓関係」と題して約一時間にわたり講演した。

 

選挙応援のこと

在日同胞の声を政策にどう反映するかという戦略会議を開いたことがある。

そのとき、われわれはあくまでも外国人であり、われわれが百いうより、日本の有力者が一ついうほうが有効だという認識になり、そうしたらどうするかということになった。

そして、われわれ在日同胞を理解する国会議員を送り出そうという戦術になった。

大阪には十六万の同胞がおり、中小企業の事業主も相当いた。事業主には選挙権はないが、従業員の日本人には選挙権があった。この現実を有効に活用しようという結論になった。

そして、当時民社党を応援した。その中に北摂地区から出馬した中野寛成がいた。 当該支部の支団長はキャバレーを経営していた人だが、その他多数のキャバレーや中小企業同胞会社の従業員の協力を得て、一生懸命応援した。そして中野寛成が初当選した。

その時の民社党の委員長が春日一幸で、大阪での票が予想を上回ったと驚き、その結果は、民団の協力以外にないという結論になった。

それ以後、民社党の中に国際窓口という韓国人関係の窓口を創設し、民社党とわれわれとの関係がさらに親密になった。

日韓親善協会は、政治結社の国際勝共連合の協力があって設立できたようなもので、事務局長も勝共連合の関係者だった。

彼らは給料なしでも動き回り、選挙では自民党を応援した。

これに対し、民社党から、日韓親善協会は自民党の選挙母体だというクレームがあがった。そのような現実では、民社党は日韓親善協会から抜けるというのである。

そのようなトラブルが長引いて、結局、勝共連合の関係者が事務局を離脱することになり、それに伴って、日韓親善協会の活動も有名無実のような状態になっていった。

そうこうするうちに、大谷一雄も亡くなり、私も団長をやめて、日韓親善協会との関係は疎遠になっていった。

まさに、「兵のいない将軍は、兵よりも力がない」といわれるように、手足があってはじめて仕事ができ、闘いにも勝てる。 その後の日韓親善協会の活動を見ていると、「韓韓親善協会」のような雰囲気になり、日本側の協力が非常に薄いということを感じた。

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