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旅と仕事の時間の合間に

 過去の一時期、海外や国内取材で、よく活動をしていた時期があった。

 フリーライターということもあったが、割合気軽に国内外に出かけた。

 といっても、海外を舞台に活躍しているライターのようなベテランのようにたびたび出かけたのではなく、ほんの少しだけまれな仕事として若い時期に出かけたといっていいだろう。

 私は旅にあこがれていたので、できれば旅行ライターのような観光地や温泉巡りのようなライターになりたいと思ったことがある。

 なので、その手のライターの入門書やハウツーなどを探しては盛んに読み耽った時期がある。

 そして、知ったのは思っていたような楽しい仕事ではなく、かなり過酷で修行のような過密スケジュールをこなさないといけない仕事だったことだ。

 収支的にも厳しい。

 取材費や短い期間で多数の場所を訪れなければならないので、温泉にのんびりつかってというような旅行気分などはないのである。

 次の場所へスケジュールを点検しながら、席が温まる時間もないといっていい。

 それでげんなりとなってあきらめた。

 とはいえ、取材に出かけるときは、仕事と思って義務的にやるよりは楽しい気分でやりたいのは変わらない。

知らない場所へ行くときは、人に会ったりする予定の時間よりも早く現地に行って、その場所を起点に周辺を歩き回って少しでも旅情を感じようとしていたのである。

一番いいのは、思ったような予定時間内で、成果を上げる取材ができたときだが、そんな時には帰宅時間ぎりぎりまで、周辺を歩き回った。

まあ、そんな機会はあまりないので、しばらく周辺取材、確認などで時間をつぶしてしまうことがほとんどなのだが。

もちろん、観光地ではないので、本当の意味では旅とは言えないが、何もないところであっても、初めて訪ねる場所には何かしら発見や感動がある。

地方も、近代化されて東京とそう変わらないという話もあるけれど、それでもその地方にはまだ過去の歴史を残している場所があったりするのだ。

また、そういった場所がなくても、同じように見える風景の中に異なるものを見つけ出す楽しみもある。

服装や顔が似ていても、その場所の歴史が背景にあるので、その土地に住む人と会って会話するだけでも、ふだんとは違う体験や発見があって、それもまた旅の醍醐味の一つと言っていい気がする。

 その意味では、さまざまな面において緊張を強いられながら行う海外取材よりも、国内取材の方が旅気分が味わえる。

 それが進むと、自分の居住地付近でも、知らない場所があるので、そこを散歩するだけで、旅行そのものではないが、何かしら発見の喜びがある。

 といっても、これは足腰が弱って、あまり遠出ができなくなった事情もあるので、大っぴらに言えることではないけれど、それでも楽しさがある。

 散歩というと、健康のために義務的に修行僧のように歯を食いしばってやっているような切羽詰まった様相をしている人によく出会う。

 健康という目的があっても、そうした散歩をしていると、周囲の自然や町のたたずまいなどは目に入らないだろう。

 むしろストレスになっている気がする。

 私の場合、散歩だけではなく、ちょっとした用事で近所に出かけるときにも、何かしら普段の風景とは違うものを見るようにしている。

 それは桜の花見のようなものであってもいいと思う。

 何も花見も、花の下で宴会をする花見でなくてもいいのである。

 冬から春にかけての肌寒い時期から、木の枝の間から青い小さな花のつぼみが見え始めているだけでも、それは新しい発見であり、楽しみでもある。

 要は心の持ち方次第で喜びや幸福の種はあちこちにあるといっていい。

 たとえば、私の住んでいる場所は幹線道路に近いので、ほとんど土があるところはまれなのだが、それでも住宅の庭や路地に過去の歴史の断片を残した風景が存在しているのである。

 それが明治時代の馬頭観音の石碑であったり、江戸時代の庚申塚であったりする。

 しかも、それは過去の遺跡というのではなく、今でもそれを守っている人が存在しているので、掃除が行き届いていたり、お酒などの供え物があったりする。

 果たしてどんな人が守っているのだろうか。

 そう思いながら見ていると、心の奥底から幸福感のようなほっとする気持ちが浮かんでくる。

 日常生活の中にある小さな喜びや発見。

 それこそ、遠出してする旅よりも、幸せがそこにはあるような気がする。

 結局、旅とは何かというと、自分の知らないことを知り、そして、そこで生きている喜びや幸福感を覚えることではないだろうか。

 もちろん、日常とは違ったことが多い遠出の旅もそのような感動を与えることは間違いない。

 ただ、ふだんいつも見慣れている風景であっても、そこにはまだまだ多くの発見と不思議と思わせるものがあるということなのである。

 こうした感慨になるのも、年齢とは無関係ではないだろうが、それはそれで自然の流れであって、年齢とともに幸福感や喜びなどの感情の感じ方が違って来るのは当たり前で何等不思議ではない。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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