記事一覧

新型コロナウイルスの危機の本当の意味

 かつて青少年時代に好んでよく読んでいたSF小説には、世界が異星人の侵略や未知の病原菌によって人類は死滅一歩手前になってしまうテーマがあったことを覚えている。

 当時は、SFはマニアックな分野だったが、今ではそんなテーマは映画でもマンガでもよく見かけるほどポピュラーなものになってしまった。

 緊急事態宣言のさなかにいた時は、沈黙が支配したような東京の街を歩いたり、人けのない電車に乗っていると、そんなSF小説の1シーンを思い出したりした。

 この時期、話題になっていた本は、アルベール・カミュの小説『ペスト』であり、今でも書店の特設コーナーにイチオシの本として飾られている。

 確かに、『ペスト』は、ペストによって閉鎖された街の中での生活がリアルな感じで描かれていたが、私は『ペスト』よりも、連想したのは、アメリカのSF作家、ジャック・フィニイの『盗まれた街』だった。

 何度か映画化された名作だが、もちろん、小説の世界そのものが重なって見えたわけではない。

 何か未知なるものによって、東京がハイジャックされ、その見えない恐怖の中で生きているという奇妙な感覚がつきまとって離れなかったのだ。

 それは緊急事態宣言解除によって、徐々に薄れていったが、それでも、コロナ以前と以後では私の意識の中ではまったく同じではなく、見えない変化が社会を支配しているという思いがしている。

 現実的な変化というよりも、意識の変化、強いて言えば、見ているものが同じでも、以前とは違って見えるということである。

 その最たるものが、生活のスタイルの変化、社会の既存の仕組みや構造が、変質ないし変わってしまったことである。

 たとえば、新型コロナウイルスの感染拡大によるテレワーク生活など生活スタイルが変わったことは、様々な変化を社会にもたらしている。

 個人の生活においても、アウトドアが禁じられたため、旅も登山も、レジャーも、そして、友人との飲み会も出来なくなって、ただ家で過ごすことで、仕事以外はテレビを見ることやインドアのゲームなどに興ずるほかはなくなってしまった。

 また、深刻なのはフリーターと呼ばれた人々の派遣切りやネットカフェに泊まることができなくなってしまったことでの生活苦、また、テレビやその他の収録自粛のためにタレントや自由業の人々が仕事をできなくなってしまったことなどがある。

 仕事がしたくても出来ないというストレスと生活への不安に多くの人が苦しんだ。

 当たり前のことをしていればよかったことが、当たり前のことさえ出来なくなったという状況は、明確な危機の姿が見えている戦争や災害による危機とは違って、どうすればいいかわからないアイデンティティの危機に陥ってしまう。

 しかも、それはただちに収入が途絶えるという現実的な問題に突き当たる。

 特に、接客業はこの問題によって深刻な状態に陥った。

 この期間、多くのレジャー関係や飲食関係の施設や店が苦境に陥り、破産して店を閉めたところも少なくない。

 こうした状況は、家族などのきずながなければ、独身者、独居老人などは、生活苦とともにアイデンティティの危機による精神的には孤立感を深めたのである。

 いつでも行っていた公共施設の美術館や図書館などの閉鎖など、あらゆる社会のつながりが、いったん途切れてしまい、何かに頼っていて生きていた生活意識が崩壊するのを実感せざるを得ない。

 それはある意味では、第二次世界大戦に敗北した戦後の日本の状況、荒廃した社会と国土の状況と似ているかもしれない。

 ただ、大きく違っているのは、戦後の荒廃は、もう一方では、全体主義的な体制からの解放、自由という精神の解放を意味していたことである。

 食糧危機によっての常態的な飢餓はあったが、それは己の才覚によって、あるいは家族や親族、知人友人関係などが濃密であった戦前からの大家族制度や社会の縁から相互扶助で、助け合うことで生活を分かち合うことができた。

 ところが、現代における新型コロナウイルスによる社会的な危機は、こうした濃密な関係が薄れ核家族化した人間関係の中で訪れたために、物質的には豊かだか、精神的には貧困というべき精神的な飢餓を露呈させたのである。

 人間同士の交流があまり無くなり、あってもパソコンやスマホの画面からメールやズームによる会議などが主流になり、身近にいれば皮膚感覚でわかることがまったくわからなくなった。

 言葉のやりとりは、どうしても、無機質なものとしか感じられず、もちろん、会話は会話なのだが、そこに、ビジネス的な用語以上なものを要求することは難しい。

 ただ、全世界を同時に繋げることで、時空を超えて、それまでには不可能だった会議が可能になったことは絶対的な利点にはなることは間違いない。

 基本的に、パソコンを介した会話は、情報のやりとり、仕事の手続きや報告などには問題ないが、それ以上でもそれ以下でもない。

 ズームなどによるバーチャル「飲み会」といったものも盛んになったが、そこには、疑似的な会話はあっても、本当の意味でのふれあいを求めることは難しいのである。

 もちろん最初は、物珍しさや好奇心を刺激されて、新鮮な気持ちになって楽しめるのだが、やがて、それに慣れてくると、それだけでは満足できなくなってしまうだろう。

 要するに、バーチャルの世界での交流は、かなり便利で多くの利点があるけれども、人間同士の実態的なふれいあい、リアルな世界での交流に比べると、どうしても限界があるということである。

 一時期、夫婦が両者とも仕事を持っているために、子育てに多くの時間を割くことができずに、テレビなどを見せることで済ませて、それが精神的成長に大きな欠陥を与え、人間関係で切れやすい子供になってしまうということが指摘されたことがある。

 テレビのアニメなどの番組の垂れ流し教育と現在採用されつつあるネットによるバーチャル授業を同断に論じることはできないが、それでも、こうした弱点というものがあることは認めなければならない。

 ただ、それが問題の本質ではなく、これまでの無意識に信じられていた前提、社会との関係が仮のものであり、それに寄りかかって疑うことのなかった日常生活の意識が崩れて露わになってしまうという事実である。

 たとえば、会社に定時に出社し、仕事一定時間行い、帰宅するという習慣、それは当たり前のものではなく、何かあれば壊れてしまう単なる仮の関係だったことを今回誰でも知ってしまうのである。

 いったい社会生活、会社で仕事をするというのは、人間の生活にとって本当に必要な物なのか、それが仮のものだとしたら、どういう生活が本当に人間らしい生活なのか、そうした問いを突き付けられているということを、一人ひとりが知らなければならない時期に来ていると思うのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

 

関連記事

コメントは利用できません。