
小説や詩歌を収攬するジャンルは、「文学」というカテゴリーでくくられている。
そのまま読んでみると、「文」を基にする「学」門ということになるだろう。
だが、果たして文学は学問なのだろうか。
学問というと、知的な研究や勉強のイメージがある。
それは求道的なものといったイメージがつきまとう。
これが哲学や政治、宗教、経済、歴史などであれば、それは深くきわめて追求することによって真理あるいは真実を明らかにするという性質があるので、学問といってもいい気がする。
ところが、文学というものは真実を追求するというよりも、詩歌、小説を通じて、人々の娯楽的な喜びや幸福を与えるエンターテインメント的な要素の方が強い。
もちろん、それだけではないのだが、基本的には文学作品の中でも大衆の感情的な感動を誘発することによって成立するのである。
真実であるよりも作品を通して、人の心の悲しみや喜びを喚起させて、ひとときの夢のような体験を与えてくれる。
これは小説を念頭に置いているのだが、詩歌の場合は歌のように人々の魂を癒やしたり、啓発させたりするのが主な性質といっていい。
その意味で、これが学問といっていいのかどうか、いささか、ためらうのである。
ただ、個人の営為よりも、もっと広範囲な学問というふうにくくられるようになったのは、その原因があるのは間違いない。
それはおそらく、個人的な見解になるが、明治政府の国民国家的な近代化政策と結びついているからだろう。
江戸時代の封建社会では、文学というものは、「小説」という命名から来ているイメージの通り、学問ではなく小さな説、余技であった。
研究し勉強するものではなく、文字通り学問の勉強に疲れた心を癒やす余技的なものであった。
それがなぜ学問に底上げされたかというと、やはり国民国家として中央集権的な国家を造り上げる上で、文学が利用されたからといっていいかもしれない。
国民の意識は古い儒教的な概念、倫理で生きていた江戸時代。
そのような国民を近代国家の国民にするためには、様々な分野で技術革新とともに、知識の平準化といった知的レベルの引き上げと、藩政時代の地方割拠の独自文化を中央集権的な意識改革をしなければならない。
地方の方言による違いはまさにコミュケーションの疎通ができにくい。
国民国家にするためには、言葉の平準化、同じ話し言葉の共通意識がなければ、西洋からの新技術の伝播も発展も難しい。
もちろん、江戸時代は方言の違いを儒教的な文章表現で、手書きしながら対話することは可能であった。
実際、江戸時代は直接会うのは交通事情などによって、かなり難しいので、手紙などによって筆談によって会話をしていたのである。
鎖国して孤立していた江戸時代であれば、それでも情報社会としての機能するのは難しくはない。
日本国内で、緩慢な文明発達のプロセスを歩むでのあれば、そんなまどろっこしいコミュケーションでも国家が危機に陥ることはない。
しかし、明治時代は西洋列強の弱肉強食の時代であり、下手をすると、アジア諸国のように植民地化されてしまう可能性があったのである。
その危機を回避するためには、早急に国民の知的レベルを引き上げ、平準化をして、西洋からの新思想・新技術を浸透させなければならない。
そのために、筆談のようなコミュケーションの手段では時代の流れに取り残されてしまう。
そのような国民意識の啓蒙の尖兵になったのが、まさに詩歌・小説などの文学だったのである。
そのために、江戸時代のような一部の教養であった漢文や文章語では一般化・平準化ができない。
小説や詩歌の分野で行われるようになった文章語の口語化というのは、文学の改革であると同時に、国民意識の平準化のために行われた重要な教育施策の一環の一つでもあったのである。
なので、詩歌や小説のように、江戸時代の余技的・娯楽的なものであってはならなかったのである。
それは国家に貢献する国家的な事業の一つでならなければならない。
だからこそ、大衆的なエンターテインメントではなく、学問という知的な教育の分野として推進していかなければならない。
そうした背景があったので、東京帝国大学でも学ぶ「文学」という立派な学問として位置づけられたのである。
私たちは、文学の歴史というものを、文学史という観点からのみ見つめがちだが、実はそれはその時代の政治と深くかかわりをもつ政治政策でもあったのである。
だからこそ、その国家の思惑に逸脱する文学(戯作など)は、弾圧の対象となったといっていい。
学問というと、政治から独立した研究分野になってしまうのである。
その戯作などによって、庶民の意識が幕府に対して牙をむくような影響力をもっていたからこそ、取り締まりの対象となったといってもいい。
そう考えると、詩歌・小説をくくる文学という表現はどこか違和感を覚えさえるレッテル張りのような気がして来るのである。
今更だが、そんなことを考えてしまう。
(フリーライター・福嶋由紀夫)