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富士山という象徴的な風景

 日本を代表する山といえば、富士山である。

 登山家でなくても、一度は登ってみたいと思う人は少なくないだろう。

 数々の絵画に描かれた富士山は、どれも画家の魂が籠っているようで、ことさら印象深い。

 が、それでも、あまり見慣れているせいか、かえってどこがすごいのかわからなくなっている面もある。

 どう描いても、結局は山に過ぎないという気持ちになるのかもしれない。

 ただ、浮世絵の葛飾北斎の「富嶽三十六景」は、こうした富士山をテーマに描いた絵の究極の形になるという点は否定できない。

 それほど構図や着想が隔絶したものがある。

 富士山を北斎が描いたというよりは、我知らず富士山に描かれされたというイメージさえあるほどバラエティーに富んでいる。

 たとえ、小さく画面の中で脇役的に添えられているように描かれていても、存在感が半端なくある。

 まさに、富士山に魅入られた画狂人の北斎のの面目躍如といった感がする。

 富士山はそれほど当たり前のような山だが、決してその本質は当たり前ではない。

 かつて幕末の英傑である勝海舟によって紹介された坂本龍馬の西郷隆盛評を思い出させるものがある。

 龍馬は、西郷隆盛を鐘にたとえ、小さくたたけば小さく鳴り、大きくたたけば大きく鳴るという、常識では捉えがたい不思議な人物として表現している。

 すなわち、たたく方の人間性が試されているといっていい。

 富士山も、そのように見る人の器量によって存在感が大きくなったり、小さくなったりするということだろうか。

 画家たちが、それぞれの技量を傾けて富士山に挑んでも、それぞれの器量が試されるといっていいかもしれない。

 富士山を描いた画家のそのほかでは、私の狭い範囲での印象で申し訳ないが、強烈に印象に残っているのは横山大観の絵画が抜きんでている。

 確か、富士山という霊峰がいかにも、現実世界と黄泉(よみ)のあの世の狭間のような境界に立つ山であるかのような、不思議な霊気がただよってくるのである。

 もちろん、横山大観の技巧、朦朧体という技法が、そうした印象を強めている面もあるだろう。

 だが、私が神秘的なものを感じるのは、架空の動物である龍が雲海を飛んでいるような現実離れした姿を描き、それがいささかの違和感を与えない印象を見る者に与えるからである。

 大観の生きた明治時代は、それまでの迷信的な俗信や通説から解放された、科学的な知見に満ちた実証的な見方や考え方が支配した時代である。

 封建主義的な価値観が否定され、科学的に思考し、進化論的に物事をとらえようとした方向性が支配的な考え方だった。

 だからこそ、血統主義的なものよりも、能力主義、学問で立身出世すれば庶民でも大臣になれると鼓吹した福沢諭吉のような啓蒙思想家も登場した。

 物事をそのまま客観的にリアルに見ようとした時代である。

 絵画も、文明開化とともに、西洋絵画の遠近法やリアルな肖像画、風景画が盛んに入ってきて、それまでの花鳥風月的な水墨画的な伝統絵画や誇張を交えた浮世絵の美人画のような伝統的な技法が否定された時代である。

 江戸時代の浮世絵などは、時代遅れのもの、前近代的な絵画として否定されて廃れていった時代だった。

 リアルな絵画、人物画、そして見たものをそのまま写真のように再現する西洋絵画に画家たちが傾倒した時代。

 確かに、浮世絵のような写実ではない絵画は、どこかウソらしい空虚さを感じさせるものとなってしまった。

 廃仏毀釈といった伝統仏教否定の嵐も起き、価値観の転倒が行われ、混乱に満ちた世相が奇妙な風景を生み出していた。

 だからこそ、日本画の伝統的な描法を受け継ぎながらも、それを西洋絵画の技法を生かしつつ、新しい日本画として再現しようとした横山大観らの試みは、伝統と現代、そして、写実という外面的な描写に終わらない、物事の真実までも写し取ろうとした不思議な魅力を生み出しているといっていい。

 架空の龍が雲の上を飛ぶなどということは、現実的には絶対的にはあり得ない話だが、人間の精神世界までも追求する芸術家には、こうした見えざる風景は、人間の本質を描く為には不可欠なパーツでもあった。

 なぜ、人は架空の動物を存在するとは思っていないし、見えないにもかかわらず、それがいかにもあり得るかのように絵画などに描くのだろうか。

 そこには、まさしく信じるか信じないかは別としても、地上の現実世界だけではわからない世界への感覚が実存するからだろう。

 シックスセンスと呼ばれるような超感覚的なものが、本来の人間、芸術家には備わっていて、ただ現実をなぞるだけでは満足できない、欲求が深層の根底にはあるといっていいだろう。

 だからこそ、横山大観は架空の龍を描くことにおいて、伝統的な技法によって描くのではなく、人間の深層心理にある奇怪で怪奇なものとして描かざるを得なかったのではないだろうか。

 人間の深層心理の世界には、それこそ現実にはあり得ないものがうごめいているといっていいのである。

 それは空想や想像といったイメージで終わるのではなく、何かしら根源的なものとして、そうした見えないものが存在しているのではないか、といった予感や感性が働くのではないか。

 西洋絵画にしても、架空の動物であるドラゴンや霊的な存在を描いているが、もちろん、その背景にはキリスト教的な影響、新旧の聖書に現れる怪物などのイメージが働いていることは間違いない。

 しかし、そうした空想的な存在を描くのは、信仰という盲目的な衝動や概念であるよりも、そうした見えない何かが、人間の行動や心理に働きかけているということを考えざるを得ないからだろう。

 科学の果てには、そうした科学ではわからない未知の存在を、芸術家の直観が捉えているということを、私は感じるのである。

 富士山が、ただの山ではなく、日本人の象徴的な山として考えられているのは、そうした背景があるといっていいのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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