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アイドルについての一視点

 アイドルというと、芸能界のタレントを思い浮かべるのが普通だろう。

 それこそAKB48や乃木坂46などのアイドルグループのイメージ。

 かわいらしい容姿で歌い踊る姿やジャニーズのタレントたちなどがアイドルと呼ばれている。

 なぜ人は、というか若い世代を中心にアイドルに惹かれるのだろうか。

 アイドルを求め追っかけをして「推しメン」に熱中するのだろうか。

 もちろん、人は昔から「アイドル」という言葉ではなかったけれど、何かしら芸能界のスターやタレントに熱狂した。

 歌手や俳優など、時代を熱狂させたタレントがいて、そのレコードやCD、写真、掲載された記事や雑誌などを宝物のように収集した。

 アイドルのポスターを部屋に飾り、写真を掲げ、そして、そこに住みながら生活するという陶酔を味わっているオタクもその一つだ。

 人はなぜそのような熱狂の対象を求めるのだろうか。

 その背景には、というか、源流には人間という存在がアイドルに熱狂する要素や原因があると考えられる。

 単に、自分たちの世代の代表として、成功した芸能界のタレントにあこがれるという表面的な問題だけではなく、そこには歴史的な側面があるのではないのか。

 アイドルという言葉には、もともとは「偶像」という意味がある。

 それだけを取り上げると、宗教的な表現、特に「偶像崇拝」のような言葉が浮かんでくる。

 仏像自体も、英語では「Buddha idol」と表現され、アイドルという言葉が宗教的な意味合いを含んでいるということが分かる。

 要するに、古代から信仰の対象としての像、悪く言えば偶像のことを指し示しているといっていいのである。

 イスラム教では「偶像崇拝」を禁じているために仏像のようなものを排除しているが、キリスト教でも基本的には偶像崇拝を禁止している。

 これからは一神教であるユダヤ教から来ているのだが、キリスト教では、イエスの磔刑の十字架が信仰の対象となっていて、それは偶像ではないのか、という見方もある。

 それは論議を呼ぶ問題だが、基本的には偶像崇拝は禁止されていることは、中世の旅行家・マルコ・ポーロがその著書『東方見聞録』(本人の著者ではないという説が有力)では、中国に至るまでの仏教信仰圏で、寺院や仏像を見るたびに、「偶像崇拝」という言葉で批判していることでも理解できる。

 当時のキリスト教信仰の人々は、「偶像崇拝」は悪魔の業という認識だったのである。

 また、西洋のキリスト教会がやロシア正教では、キリストの聖画をイコンと呼び、信仰の対象としているが、これもまた、一部では偶像という見方がある。

 だが、これらは微妙な問題であり、教義の問題もあって、簡単に考えることはできないといっていい。

 なぜ人は信仰の対象を形あるものとして絵画にしたり、木や石やその他の材料で仏像などを造るのだろうか。

 信仰の対象としてアイドルという像を必要とするのだろうか。

 これは、人間が絵や偶像というものを造らないと、安心できないせいだろうか。

 それだけ形あるものがないと、信仰が風化したり、変化したり、忘れられてしまうということもある。

 また、宗教を信ずる信徒数の数が少ない場合には、対面で話し合うこともできるから、口伝のようにして互いに役割を分担しながら宗教組織を維持できる。

 ところが、集団が増えていき、集団の構成員が民族や国境を越えていくと、どうしても見えるものの信仰の対象が必要になって来る。

 国境を越えると、同じ人間であっても、言語が違ってくることもある。

 どうしても、言葉の壁を超えるのが難しくなって来るので、絵画や仏像のような具体的な形あるものの対象が必要になって来る。

 たとえば、日本に仏教が伝来したとき、その教義を理解する前に、仏像というアイドルがその形や姿によって心を動かしたことは割合知られている。

 欽明天皇は、金箔されていた仏像を見て、そのキラキラした姿に、仏教の持つ威力、魅力に魅せられたのである。

 すなわち、先進文化のハイテクのようなものをそこに見出した。

 当時は、仏像のような彫刻も、金箔のような技術もなく、そこに仏教というものの持つ先進技術とそれを生み出す精神文化を感じ取ったのである。

 美しいものを作り出す背景には、それだけ豊かな技術と文化がある。

 それは文字による教義書よりも、視覚的で、具体的である。

 当初、偶像を禁止していた仏教も、そうした当初の姿勢を忘れて、仏像を造り、寺院を建築していったのは、それが目に見える具体的な布教の道具として威力があったからである。

 こうした点を考えると、神仏の像が流布し、それ自体が一つの信仰の対象として敬われるのも、人間の心が無意識にそれを求めているからである。

 その意味で、アイドルが人をひきつけ魅了するのも、そうした人間が原初的に深層心理が働いていると考えられるのである。

 アイドルの原形を想像すると、おそらく神と人間の間に立つ人間、すなわち巫女のような存在を思う浮かべることができる。

 神の言葉を口寄せや歌や踊りによって人々に伝える媒介的存在、それがアイドルの原形ではなかったのか。

 巫女のようなシャーマンの歌が人々の心をつかみ、踊りが熱狂的なパフォーマンスとなって群衆を巻き込む祝祭となる。

 人々は、巫女に神の御姿を幻視し、そして、それとみずからが一体化することで、神の恩寵を受けようとするのだ。

 まさに、アイドルの源流は、神の救いを人々にもたらす救い主、そのような巫女的な存在への熱狂があると言えるかもしれない。

 なぜアイドルに熱狂するのか。

 現在に置き換えると、芸能人のタレントにみずからの人生を昇華する様々な情念をカタルシスのように重ねているといったらいいか。

 いずれにしても、アイドルを求める心には、人類の救いというものを求める欲望や衝動が源流としてあると考えてもいい気がする。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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