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黄七福自叙伝「金天海というひと」


 

黄七福自叙伝18

「ああ祖国よ 我れ平壌で叫ぶ時 祖国は統一」

 

第1章 祖国解放までのこと

金天海というひと

一九二二年(大正十一)年の夏、信濃川虐殺事件が起きた。

信越水力発電株式会社の「北越の地獄谷」と呼ばれた信濃川発電工事所において、大倉組配下の監獄部屋の朝鮮人労働者六百余人が低賃金のもとで酷使・虐待されただけでなく、逃亡者に対してはピストルで射殺、あるいはセメント漬けにして信濃川に投げこみ、数十名が虐殺された、という事件であった。

読売新聞七月二十九日付は、この事件を「信濃川を頻々流れ下る鮮人の虐殺死体」「北越の地獄谷と呼ばれて附近の村民恐ぢ気を顫ふ」「信越電力大工事中の怪聞」という見出しで大々的に報じている。

この事件によって、在日朝鮮人、特にインテリと「意識の高い」労働者の憤激は高まり、在日本朝鮮労働者状況調査会が結成され、在日同胞が置かれている状態についての調査活動が始まった。

朴広海は、このときの活動に加わって、茨城、長野、群馬、愛知と各地の飯場を渡り歩いて、自ら働きながら、朝鮮人の土方・人夫の状況を調査した。

そして、この調査活動を推進した人々が中心になって、二月になって、東京朝鮮労働同盟会が組織された。

さらにこれに続いて、十二月には大阪で関西の朝鮮人労働者が集まって、大阪朝鮮労働同盟会が結成された。

こうして、いよいよ在日朝鮮人独自の労働運動が組織的に始まったのである。東京朝鮮労働同盟会は、その綱領に「われらは、朝鮮労働運動を国際的に前進せしめ、世界無産階級の絶対的勝利を目的とす」「われらは、在日本朝鮮労働者の階級闘争の促進と職業の安定を期す」を掲げた組織で、明確に階級的立場に立ったものであった。

この信濃川虐殺事件によって、在日本朝鮮労働者状況調査会が結成された。朴広海などは各地の飯場を渡り歩いて、自ら働きながら、朝鮮人の土方・人夫の状況を調査した。また、金若水なども「北星会」を結成して抗議活動を起こしたりした。

また、東京朝鮮労働同盟会が組織され、金天海ら十三名が実行委員として名を連ねている。金天海はそのとき、まだ末席という感じで、名簿の最後に名前が載っているが、仏教の修行と研究のために日本に渡航してきて一年もたたないうちに、在日朝鮮人労働運動の最初の組織者として認知されつつあったのである。

朝鮮人の日本での悲惨な生活を見るに忍びず、朝鮮人の組織作りに奔走するようになったのである。そのうち、飯場の朝鮮人親方らから「頭領」と崇められたが、その後、検挙され、都合十三年間、獄中にあった。

金天海に関する図書はほとんどないが、宮崎学著の『不逞者の系譜―万年東一と金天海』という本が角川春樹事務所から出ている。

そのなかの『在日の星 金天海』を参考に、金天海という人のキャラクターを追ってみよう。著者の宮崎学は、警察から三億円事件の犯人のキツネ顔の男に似ているとマークされた人である。

 

◇金天海は、一八九九年(明治三十二)五月十日、慶尚南道蔚山郡に生まれた。本名は金鶴儀、「天海」とは、仏教の僧名であった。

流通・貿易関係の家業を営んでいた金家の一人っ子として生まれた鶴儀は、少年のときに寺に預けられたのである。

◇一九二二年(大正十一)の初め、梅田駅で朝鮮人の老人の一団と出会った。「サンツ」という髷を結った四十人ばかりのこの集団は、三月に東京上野・不忍池で開かれる平和記念東京博覧会に朝鮮の田舎からやってきた両班階級の観光団であった。

……日本政府は、「韓国併合」に尽くしたといって、観光団を組織して招き、「日韓融和」を演出しようとしたわけである。これら観光団の姿にかなりショックを受けたらしく考え込んでいた金天海が、いきなり、「なんとかしなければならない」と言い出した。「独立の意識を持つようにしなきゃならない」というのだ。

……せめてサンツを刈って、洋服を着て式典に出るように、老人たちを説得しようということになった。……「朝鮮人を貶めるような見世物の道具になっていいのですか。あなたたちは利用されているのです。民族の誇りに目覚めてください」

◇金天海は、大震災翌年の虐殺抗議の行動には、すでに中心人物として関与している。一九二四(大正十三)年三月十六日、東京朝鮮労働同盟会は、日本労働総同盟との共催で「関東大震災被虐殺日支労働者合同追悼会」を開いた。

……金天海は、このとき、朝鮮人代表になって、日本労働総同盟に対して、いっしょに朝鮮人虐殺抗議を日本政府に行おうと申し入れた。だが、総同盟幹部はこれに消極的で、なんのかんのといって、しりごみしたらしい。

◇傍聴席には、粗末な服装の荒々しい土方たちが続々と集結していたのだ。朝鮮人飯場の親方たちであった。彼らは「親分」と呼ばれていた。そして、この「親分」たちは、金天海に 「とうりょう」と呼びかけたのである。

頭領ないし棟梁、いずれにしても、金天海は「親分」たちの「かしら」として遇されていたのだ。これら親分たちは、土木工事に雇われた朝鮮人の請負人や労働者を代表して雇い主と交 渉し、かつみんなを統率していた人間たちである。

◇小田原の根府川で、関東大震災復興事業の一環として、朝鮮人労働者が砂利採取で働いていた現場で、賃金が未払いだったとき、金天海は発注先の復興局から、さらには鉄道大臣にまで掛け合いに行き、大臣室に坐り込んで直談判に及んでいる。

そして、工事代金を取ってきた。だから、「とうりょう」と呼ばれ、「かしら」と呼ばれたわけである。そして、その頭領がパクられたのだから、みんな、すわっとばかり、集まってきたのである。このとき集まった親分は四十名以上。回状を回したらしく、東京、静岡などの隣接県の親分衆も駆けつけてきたという。

◇金天海という人物は、大同団結に向いている人物だったのではないか、という印象を受ける。温和な人柄。しっかりした信念。そして理論をふりまわすようなことをしないで、よく相手の話を聞く。自分が切り回すというより、まわりの人間を動かす。それでいて、自分も現場で地道に身を挺して活動する。そういう金天海は、尖鋭な理論闘争・分派闘争より、広範な団結形成・戦線統一にこそ役割を発揮する人間だっただろうと思うのだ。

◇金天海は演説が下手であった。金天海を知る人が、戦後の彼の思い出を語る時に必ず出てくるのが演説下手の話である。とくに正式の集会や大会で、大群集を前にした時には必ずと言っていいほど、失態を演じた。この種の演説は、もちろん秘書が、原稿を書いて金天海に前もって渡すのであるが、金天海は、それが読めなくなるほどアガルのである。

◇金天海は理論家でもないし、アジテーターでもない。だから、口角泡をとばす理論闘争の議論も後ろでにこにこしながら聞いているし、集会でアジりまくるということもない。そういうことは、まわりの仲間たちに任せて、じっと見ている。だが、直観的な鋭い判断力を持っていた。その判断力で、あ、これでいくのがいいな、と思うと、こうしようじゃないか、と提案する。それは、全体をよく眺め渡したものだから、みんながまとまりうる方針である。

◇金天海は、一九三六(昭和十一)年五月頃、滋賀県大津に行った。紡績工場でオルグをした後、内鮮親和会という融和団体に乗り込む。「あんたがたは何をしようというのか。陸軍中将かなんかが書いた額縁を掲げて、朝鮮人の団体だとよく言えたものだ」と副会長なる者をとっちめた。

相手は、「金天海」という名前を聞いたら、何も言えない。頭をたれて高説を拝聴するばかりだ。金天海は、いまや親日派に対してもそれだけの威力を発揮する存在になっていたのだ。諄々と民族独立を説いて、ここを去った。

◇金天海は、東京・豊多摩刑務所内に設けられた東京予防拘禁所に送られた。肺結核が悪化し、それが腸結核にまで発展していて、咳と下痢に悩まされ、歩くこともできない状態だった。拘禁所職員に担がれて独房に入れられたという。

金天海は、予防拘禁中の「転向」を促す、拷問のなかでも一番つらかった思い出を、後に若い活動家に話している。「それは、クギを無数に打ち込んだ樽の中に入れられ、コロがされたことだ」と。

◇「(山辺健太郎の回想)予防拘禁所で、偉いと思ったのは、まず天理教の人です。死刑を求刑されたのだと思うけれど、どこ吹く風で悠々としていました。それから、在日朝鮮人運動の中心だった金天海です。……私が雑役について、尻をふいてやりました。金天海と出会ったことなどが、のちに私の朝鮮史研究の原点になっていると思います。日本資本主義研究にとって植民地収奪をぬきにできないと思ったんです。金天海以外に在日朝鮮人で非転向というのはほとんどいません」

◇中村義郎という東京予防拘禁所の所長が、こう発言している。「徳田(球一)と金(天海) と云ふ半島人(朝鮮人のこと)、是はどっちも本人の気持を聞いて見ますと単なる共産主義者ではない、共に背後に民族的な意識が非常に強く根拠をなして居るやうに思ふ、……そこに彼等の案外がっちりした所があるのではないかと云ふ感じを懐いて居るのであります」

◇金天海を転向させなかったのは、共産主義者としての確信というより、異民族の支配者に頭を下げてたまるかという強烈な民族意識だったにちがいない。それと同時に、偽装転向という手段を潔しとしない倫理意識が金天海にはあったのではないかと思う。

彼は、これまでの運動の中での面影をたどってきても、おおらかに飯場の労働者や朝鮮人部落の中に入っていき、図太く活動する面とともに、どこか求道者的な面を宿しているところがある。そこには、宗教者に通ずるものが感じられる。金天海を転向させなかったのは、しっかりと身を拝して崩すまいとする宗教的信念に似たものでもあったのではないだろうか。

◇(予防拘禁所にいた今村英雄の話)「金天海大人は長身で、朝鮮の貴族出身ではないかと思わせる立派な風貌をしていたが、在日朝鮮人労働運動の指導者で、仲間からは深く尊敬され、慕われていた人物である。悠々としていて実に戦闘的なのである。何か道理にあわないことがあると、直ちに役人に抗議し、一歩も退かなかった。独居者には時折、幹部職員が訪ねてきた。心境について、さぐりをいれるためだ。金大人はそれをつかまえては訓戒を与えるのであった。訓戒をである。どこから見てもまるで先生が生徒に教えているような光景であった」

◇金天海は、こういって論したという。「朝鮮では、帝王の前で、首をはねると言われても自説を曲げないで命を奪われた学者がたくさんいた。いま日本では、真理のために身命を惜しまない知識人がどれだけいるか。あなたがたは、『思想善導』と称しているが、帝王の御用をつとめる役目を果たしているだけではないか。いやしくも学問をしたものとして恥ずかしいとは思わないのか」

これらの抜粋から、金天海の人柄が偲ばれると思う。

植民地時代は祖国の独立運動と社会主義運動が、ともに日本の「軍」「警」から圧迫されるという点では共通点があったため、社会主義者たちが独立を主張しているような感じがあった。金天海は、共産主義者というよりも、祖国の独立を誰よりも願った民族主義者であったようだ。


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