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老後の死生観をいかにすべきか

 かつて大学に通っていた時代、それはずいぶん昔のことになるのだが、今でも記憶に残っている恩師の大学教授の言葉を思い出す。

 そのころ、私は文学部の日本文学科を専攻していたのだが、第一外国語として、フランス語を取っていたため、そのためのゼミに所属していた。

 そこの先生が、文芸評論家としても何冊か本を出している教授だった。割合有名だったので、受講者がかなり集まっていた。

 私は、個人的に教授と話しをしたいと思っていたが、引っ込み思案の性格で、なかなかその機会がなかった。

 ある日、隣に座っていた学生が、「先生の家に行こう」と誘ってくれたので、アポイントを取り、夜に二人で出かけたことを覚えている。

 先生の家は、二階建てだったような記憶があるが、そのあたりはアイマイ。ただ、二階の書斎で、先生の話を聞いて自分も関心があったので、興味深く聞き入ったことだけは間違いない。

 確かフランス文学のこと、日本の現代作家への批評などだったと思うが、その中で、先生が言った「もう自分はいつ死んでもいい」としみじみと語っていたことが強く印象に残っていた。

 そのころは、「死」という言葉は簡単に口に出せないものと私は思い込んでいたので、何度も「いつ死んでもいい」という言葉を話す先生が、ちょっとばかりうらやましいような、理解できないような気持ちだった。

 当時、その教授は40代後半か50代ぐらいだったと思うが、若々しい様子をしていたので、なおさら不思議に感じたのだろう。

 私は、もはやその時の教授の年齢を越えている。

 果たして、この教授のように、「いつ死んでもいいい」と言えるだろうか、と考えたときに、いや自分にはできないと反射的に思ったことがある。

 なぜなら、私はこの教授のような満足ができることをしていない、自分の生きた証を残していないという思いに駆られたからだった。

 確かに、いろいろな仕事をしてきて、自分の著作やゴーストライターとして何冊かの本を出していて、自分なりに一つの成果を上げていることは間違いない。

 自分の本棚には、そうした本が並んでいるのをみると、これまでの人生が走馬灯のように浮かんでくる。

 しかし、それらの本の中で、本当の意味で自分の人生を代表したものとして満足して死ねると思えるだろうか、と考えると心もとないのである。

 もちろん、その時点で、力を出し切ったという思いがあるのだが、それでも、代表作として、これを棺の中に納めることができるかどうか。

 むろん、有名な作家やライターのような名声を求めているわけではないので、自分が満足できる作品というのは、主観的な問題に過ぎないのだが、それでも、そう思うことがあるのも確かである。

 新型コロナウイルスで話題になっているカミュの『ペスト』には、一生に一度の傑作を書くことを念願しながら、一行を書いて添削しながら満足している老人の話がある(ずいぶん昔に読んだ本なので記憶がアイマイだが)。

 長年の仕事を経て定年を迎えて、今後は自分の夢であった小説を書き、それで、すべての人から賞賛を浴びるという光景を思い浮かべては微笑んでいるような老人だが、結局は最後まで本を完成させることができない。

 夢に生き、夢を抱えて、そのイメージを思い浮かべて一生を終える。

 カミュの意図がどうだったのかはわからないが、私はそうした脇役の人物に、ひどくひかれたことを思い出す。

 市井のふつうの人間にさえ、自分の夢を抱きながら、人に理解されようがされるまいが、その夢を実現させようとして生きている。

 それは私自身であり、周囲の人々の姿そのものである。

 生きているということは、そういうことだ、と私が悟るまでに、ずいぶん時間がかかってしまったが、まさに人生というドラマの中では、見ている観衆がいようがいるまいが、自分が主人公なのである。

 社会というのは、こうした主人公たちが、自分の人生の夢を抱え、あるいは挫折しながら生きている集合体といってもいいだろう。

 誰も、他人の人生のドラマを知ることはできないが、友人や夫婦などの関係を通じて、わずかに交わっていく。

 生きている間は、家族などの関係を通じてつながっているが、死ぬときは自分ひとりだけで死んでいかなければならないのだ。

 その上、自分自身ではいつ死ぬかを決めることができない。

 その意味で、私の恩師の「いつ死んでもいい」という言葉が、どれほど重いか、理解できがたいものであるか、改めて思うのである。

 もちろん、ふと教授がふとつぶやいた言葉は、実感ではあるのだろう。

 それは自分の人生なのだから自分で決定していい、他人は関与できない。

 そういう思いがあるからなのだろう。

 しかし、本当の意味で、自分の人生を自分で決めることはできるのだろうか、と考えればできないのではなかろうか。疑問に思う。

 自分自身の人生の評価を自分が下してしまえば、それは自己満足、あるいは他者との関わりを拒否した個人主義者ということになる。

 個人主義は閉じたエゴイズムの思想であり、自然万物とともに生活し、社会国家などの恩恵を受けている人間の自己欺瞞に過ぎないと思う。

 評価は死んだのちに、他人が決めるものである。

 どれだけ自分が自分の作品を論じ弁護しようが、それは自分の価値観で通用する世界であって客観的な評価ではない。

 その意味で、「生」も「死」も自分のものではないのではないか。

 両親によって生まれた命は、自分だけのもではないように。

 また、家族によって生きて来た人生は、家族とともに、「死」を迎えるというのが本質ではなかろうか。

 そのような様々なことを思う。

 私自身、こうして高齢者になってみると、若い時代と違って、人とのかかわり、その人間関係がいかにありがたく感謝すべきことなのかが、よくわかってくる。

 個人では生きられないのが人間の本質とすれば、「いつ死んでもいい」というよりも、私としては、その時が来るまでできるだけ、有意義に、そして、感謝と喜びにあふれながら生きていきたいと思う。

 それが今の私の正直な気持ちである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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