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福島市の大蔵寺を訪ねて千手観音像を拝む

 作家の五木寛之氏の『百寺巡礼 第七巻 東北』(講談社文庫)を読んでいたら、芭蕉の俳句「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」で有名な山寺や中尊寺、恐山などが紹介されていた。


 この本にはないのだが、ふと私は東北の福島県福島市にある古刹の寺院・大蔵寺を思い出した。

 古寺というと、どこか閑寂さや苔でおおわれた境内、樹齢数百年の巨木、そして安置されたガラスケーズなどに囲まれた仏像などが思い浮かぶ。

 だが、福島市の大蔵寺には、そうした美術館や博物館にも似たよそよそしさはほとんどない。

 五木氏は、東北の仏像は奈良や平安などの都にある洗練された仏像にはない素朴で力強いたたずまいがあると指摘している。

 それは縄文的な精神風土をもっている東北に仏教が入って来た当初の余韻をまだ保っているということだろうか。

 東北地方に根付いていた古来の宗教文化と仏教が衝突し融合することによって、仏像に化学的な反応が現れているということかもしれない。

 一言でいうならば、その像に込められた東北人の素朴な信仰や魂が息づいているといったイメージ。

 仏像彫刻は、確かに奈良や平安のものには、端正でどこか美的な芸術的な陰影があり、見事なのだが、どこか人肌を思わせる温かさや素朴さから少しばかり離れてしまっている気がする。

 それは信仰というものが、庶民のものというよりも、貴族などの権力者の趣味や趣向に合わせているといったこともある。

 ある面では、庶民的な生活感情から遠い冷たさ、ぬくもりがあまり感じられないところがあるといっていい。

 仏像を彫る仏師にしても、貴族などからのパトロンの意向を受けて造るのだから、その点は仕方がないことかもしれない。

 奈良時代の仏教自体、個人救済を目的としたものではないことも大きい。

 仏教は国家の安泰と繁栄を願って導入されたものであり、国家鎮護といった面を担っていたのである。

 実際に全国各地に造られた国分寺や国分尼寺は、そうした公的な機関、国家事業として造られたもので、そこにいる僧侶は国家公務員でもあったことはよく知られている。

 国府などの役所が政治的な業務を担っていたとすれば、国分寺は地方の人々の心を鎮撫する精神的な役所でもあった。

 仏像を通して、僧侶たちが国家安泰を願い、経典を読経することによって精神的に国を守り、また国民の心を鎮めた。

 要するに、人が礼拝する対象になる仏像ではなく、もっと大きな目的をもって造られたために、仏像自体が人間離れした超越的な姿を体現している。

 それに対して、東北の仏像には仏教が日本に入って来たときの当時のカルチャーショック、インパクトがただよっている。

 どこか粗削りだけれど、燃えるような生命力というものがあふれているといっていい。

 そのあたりのことは美術評論家の吉村貞司氏が的確に表現している。

 「中央仏はほとんど目じりが吊り上がっている。ひきしまった表情、隙のない、賢明な、そしていわゆる容姿端麗という言葉があてはまる。(略)飛鳥、奈良、それは庶民を見下した貴族の感覚だ。仰ぎ見て、そのうるわしさ、その一きわすぐれた姿に威圧された。威圧されてこそありがたさ、かしこさが生れた。つまりは恐ろしいからかしこまるのだ。これを形の美しさを生かした仏と言えよう」(『古仏の祈りと涙』新潮社)

 吉村氏が東北の古仏は「人なつこい、あたたかい性格」があると指摘しているのは慧眼であると言えよう。

 それを如実に感じたのは、福島市にある大蔵寺を訪ねた時である。

 大蔵寺は、福島市の郊外、弁天山の麓にある。

 もともとは山の上にあったが、災害のために麓に移ったという説もあるらしいが、詳しいことはわからない。

 坂上田村麻呂の東北鎮護のために、奈良時代の有名な行基が開基したと言われている。

 大蔵寺を有名にしているのは、行基が造ったという伝説がある丈六の千手観音像ゆえである。

 この観音像は、高さ四メートルほどもあり、カヤの巨樹から彫られた一木造で、奈良から平安初期の時代の面影を伝える名品である。

 見上げるように仰ぐと、何かわからないが、仏教徒というまでの信者ではないが、宇宙から見下ろされているような圧迫を感じた。

 それはおそらく、この仏像が博物館のような展示物として置かれているのではなく、蔵の中に無造作に立っているという、あまりにも身近なせいかもしれない。

 1000年以上前に造られたとは思えないほど、生々しい存在感がある。

 と何やら知ったかぶりに書いているけれど、鑑賞するという気持ちではなく、粗削りな当時の仏師の息吹が木の肌の黒ずみにただよい、しかも見下ろすような仏像の視線から落ち着かない気分だったことは間違いない。

 この不思議な感情は、私自身が東北出身であるという出自、先祖の影が背景にあるからかもしれないと思っている。

 大和朝廷に支配された東北人という感覚が残っているからだろう。

 五木氏は、東北には天台宗ゆかりの円仁の創設した寺院が多いことなどから、そこには当時の政府の東北経略の意図が反映していたかもしれないと指摘している。

 東北地方を征夷大将軍の坂田田村麻呂が攻略し、その後、鎮護のために仏教布教のために僧侶が入り、寺院を造り、仏像を安置する。

 そう考えてしまえば身もふたもない政治といった印象しかないが、しかし、その裏を読みとくと、南の先進地域と縄文的な北国の平和な共存ということが見えて来る。

 少しこじつけていうと、仏教によって弥生文化の南の大和地方と縄文の東北という南北統一、共存と和合といった面があるような気がしている。

 縄文的な狩猟採集で食糧事情が不安定な東北の民に、稲作を中心として食糧を安定供給するための開墾指導し、その上に、仏教の教えと縄文人と弥生人の婚姻によって平和共存し、そこから日本という国柄が統一されたと見てもいいかもしれない。

 その意味では、武力や政治経済的な統一は限界があり、平和な宗教の介在がどうしても必要不可欠であるという真理がそこから見えて来る気がする。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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