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物忘れと認知症、自然の摂理

 老人や高齢者の話は、病気自慢や物忘れの話が多い。

 あそこの病院はどうだとか、足が痛い、膝が痛い、病気になった、薬を飲んでいる、胃が悪いようだ、がんかもしれない、などなど。

 病気自慢のような状態になっている。

 そのほか、見ているテレビのタレントの名前が度忘れして、「あれ」「その」「誰だったかな?」など、指示語ばかりを連発する。

 そんな姿を見ていた若い時代は、なぜ病気の話ばかりするのか、疑問だった。

 自分が高齢者になっても、そんな話はしないぞと思っていたら、その年齢になってみると、妙に病気やケガの話をしたくなってくる。

 不思議なのだが、病気自慢をしたいような気持になるのだ。

 何故だろうと考えた。

 おそらく年齢を重ねるにしたがって、興味や関心の範囲が、社会や世界よりもずっと身近な話題に集中するのだろうと思う。

 身体的な衰えが、思考を自分の身体レベルに引き寄せるからだ。

 若い時の痛みならば、何とか薬や手術などで、解決できるが、長年の習慣によって金属疲労を起こした膝関節や肩こり、衰えによる筋肉の痛みなどはなかなかよくならない。

 慢性的な症状として感覚的かつリアルな現実として日々悩ませられるのである。

 もちろん、世界情勢や政治の話に関心がないわけではないが、というよりも床屋の政治談義のように好きなのだが、どうもそうした話題と矛盾しない自分の話もぜひとも聞いてほしいという衝動に駆られるのだ。

 その背景には、自分の状態への不安と病気話で相手と共感したいという思いがあるようだ。

 要するに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といった心理かもしれない。

 高齢者同士だと、まったく健康で病気も何もないという人はほとんどいない。

 何かしらの既往症や病歴や身体の不調を抱えている。

 そこで、同じような病床や身体異常を抱えていると、そこに同病相憐れむといった感じの安心感が得られるのである。

 会話の話題は、世界情勢を討議するといった表向きの話よりも、どこそこが痛いという共通の話題の方がはずむし、興奮する。

 シーザーの「ブルータス、お前もか」ではないが、お前も膝で歩けないのか、頭髪が薄くなっているのか、定年で会社を辞めるのか、そういった将来への不安と身近な健康の状況への話題の方が相互理解しやすいのである。

 これはどんな人でも変わらない。

 ただ、それを表に出して弱音を吐くことができるかどうか、プライドが高くて、自分の弱点をさらすのを好まないといった性格の違いがあるけれど、ほとんど高齢者はこうした不安を抱えながら生きていて、深層心理においては、それを誰かに知ってほしいと思っているのだ。

 かつて、世界情勢に通じ、政治論議や経済について、独特な舌鋒を放っていた評論家が、晩年に至って、体の不調によって、どうしても我慢できない痛みに悲鳴を上げて、正直に自分の悲惨な状況をエッセーに書いていたことを思い出す。

 戦闘的で挑発的な人物だったので、ちょっと敬意を感じていたのだが、その赤裸々な告白に共感するとともに、やはりどんな人物でも年齢という自然の摂理にはかなわないのだなあと納得したことを覚えている。

 中でも、「若い奴らにはこの痛みはわからんだろう」というような捨て台詞には、思わず笑ってしまった。

 肉体的な状況などは、自分の意志で克服できると、常に威勢のいい論調を張っていたから、そうした痛みなどは無視できると思っていたのだろう。

 ただし、私はこのように自分の状況を赤裸々かつ正直に明らかにした姿勢には、やはり敬意を覚えた。

 プライドに邪魔されて、なかなかこうも自分の弱みを告白するのは難しいからである。

 この話を書きながら、私が思っていたことは人間の成長過程である。

 たとえば、身近な存在で、植物の世界を考えれば、種から芽を出し、葉を茂らせ、花を咲かせ、そして実をつける。

 その実が熟すれば、鳥などが食べ、あるいは食べられないまま腐って落下して種を残す。

 そうした植物の生涯のプロセスを考えれば、高齢者というのは、実が熟し、後は地に落下して種という子孫を残すことだけになる。

 身体が弱り、病気になりがちで、記憶が薄れ物忘れが多くなるのも、納得できるかどうかは別としても、そうした自然の摂理にかなったプロセスの一部になるのではないだろうか。

 若い時は、精神的なものと身体的なものは、時に平行になったり、交じり合ったり、かつ分離しながら、両者が一致するような時間へ向かって走っていく。

 だから、未来に向けて希望や夢を抱き、無限の可能性を感じたりできる。

 だが、その無限の可能性を感じる精神的波長と身体的な時間が一致する年齢になり、そして、その後は身体的な衰退によって精神的なものは引きずられるようになり、やがて、身体的現実に支配されてしまう。

 もちろん、それに抵抗できないことはないが、あるいはそうした身体的なものを克服しながらその衰退を引き延ばしたりすることはできるが、それでも、身体自身は終着点に向かって徐々に弱っていく。

 それは有限な人生を生きる人間にとっては、変えることができない現実的な事実であることは間違いない。

 最近、私はそのような精神の軸と身体的な軸がずれている経験をした。

 それは脳で思っていたことが実行できない、むしろ別な行動をしてしまうという身体と精神のアンバランスな状況が、私の意志を無視して起こったことである。

 ある人の話を聞くために、ほとんど寝なくて始発電車に乗っていくつか乗り換えて、その人の家を訪ねた。

 インタビューは無事に終わったのだが、その後、食事を共にしているとき、箸でおかずを取ろうとして、手が自分の意志を無視して別な鉢にあるおかずをつまんだのである。

 変だな、と思って何度か試みても、何度かエラーが起こる。意識がそのまま手に反映されないという経験をして私は驚愕した。

 高齢者が自分の意志とは反して、行動したり、事故に遭ったりするのは、もしかしたら、こうした精神と身体の一致しないエラーが背景にあるのではないか、と思った。

 この時は、睡眠をあまりしていない極度の疲労が背景にあったせいもあると思うが(その後はそうした状態にはなっていない)、いよいよ認知症的な症状が起こる年齢になったのだな、と改めて感じた次第である。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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