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コーヒーとお茶の話

コーヒーメーカーとドリップ仕立てのアイスコーヒー

 最近は、健康に良いということで、コーヒーが好まれているようだ。

 日本の伝統的なお茶の方は、それに比較するように、少しばかり下がっているようだ。

 お茶と和食は切っても切れない関係だが、最近はコーヒーをお茶代わりにしている人も多いらしい。

 少なくとも、そんな光景が不思議ではなくなっている。

 これには、和食よりも洋食を好む人が増えたこともあるだろう。

 朝食にご飯よりもパンを食べる人は、だいたいコーヒーを飲むし、眠気覚ましにも最適ということもある。

 昼間は洋食のケースでは、セットでコーヒーを飲む場合が多いし、夕食でも和食であっても、眠気覚まし、意識をすっきりさせるためにもコーヒーを食後に飲む人が少なくないといっていい。

 ましてや受験生など深夜にわたって頭脳を活発化させるためには、カフェインの多いコーヒーが頼りになるのはいうまでもない。

 その上、ガンなどの予防にもコーヒーがいいらしいという話もあり、コーヒータイムが多いのもうなずける話である。

 かくいう私も高齢化して食後や深夜の仕事の集中力を高めるためにコーヒーをお代わりすることが多い。

 お茶では効果がないので、コーヒーは必須の嗜好品となっている。

 しかし、昔は眠気覚ましにはお茶が主流だった。

 お茶自体が日本にもたらされて、特に禅宗などの坐禅の眠気覚ましに飲まれ、やがて、その効用が健康の維持にもいいということで、盛んに飲まれるようになったのである。

 そのことによって、お茶は特別なものから日常茶飯事に飲まれるものとなったといっていい。

 「日常茶飯事」という文字に「茶」が入っていることからも、日常の飲み物として定番になっていることがよくわかる。

 今では茶は高級なものを別にすれば、安価な飲み物で手に入れることは容易であり、手頃なものとなっている。

 だが、昔はかなり高価なものだった。

 高価といっても、日本の話ではない。

 中国の三国志の時代の話である。

 昔読んだので、記憶がアイマイな部分もあるのだけれど、『三国志演義』に冒頭だったと思うが、劉備玄徳と関羽、張飛の三人が義兄弟の誓いをする「桃園の誓い」の場面がある。

 ここにお茶が絡んでくるのである。

 劉備は老いた母を喜ばせるために当時高価だったお茶を買って持ち帰るとき、黄巾の賊に奪われそうになり、それを助けた関羽たちとの義兄弟になるきっかけになった。

 そのお茶が何と手のひらに入るぐらいの壺に納められていたというのである。

 この場面を読んで、私は劉備のお茶と私が日常飲んでいるものとは同じでものであるとは到底思えなかった。

 それで、この場面がずっと記憶の底に根強く残っていたのである。

 それこそ黄金にも勝るような高級品だった劉備の時代のお茶は、特別なものだったということだろうと思う。

 確かに、今われわれが享受している食品も、かつては安価なものではなかったものが少なくない。

 たとえば、その代表的なものに胡椒がある。

 大航海時代以前、胡椒は貴重なものだったので、ヨーロッパでは黄金と同等かそれ以上の価値を持っていた。

 胡椒を手に入れるためには、原産地である東南アジアなどへ行くために、陸路を通らなければならず、その膨大な距離と人力による運送のために価格が自然に高騰していたのである。

 しかも、途中には盗賊に遭い殺されるということなどの危険なことも多い。

 こうした危険性や運送の困難さが胡椒の価格を押し上げた。

 それと同じようなことがお茶にもあったのかもしれない。

 劉備が親孝行のために命がけでお茶を手に入れようと、苦労して稼いだ全財産を投じたのも、そうした点から考えると不思議ではない。

 今ではお茶は基本的には各地で栽培されているので、特別感はなく日常で飲むものとなっている。

 その日本人には日常茶飯事だったお茶があまり振るわなくなったのは残念だといっていい(とはいえ、多く日本人にとってはお茶はまだまだ食事に欠かせないものである)。

 ところで、最近知ったことだが、『三国志演義』にある義兄弟のきっかけにもなった劉備のお茶の話は事実かどうかはわからないということらしい。

 もともと『三国志演義』の「桃園の誓い」話自体が、正史の『三国志』にはないという指摘がある。

 その面では後から付け加えられたエピソード、劉備たちの出会いを劇的に盛り上げるための創作の可能性があるという。

 しかも、劉備のお茶の話自体も、『三国志』をもとに読みやすい小説にした吉川英治の作品に出てくる話だという指摘さえある。

 私は『三国志演義』を和訳された平凡社の中国古典文学体系で読み、吉川英治の小説でも読んでいたのだが、どうだったのかはそのあたりの記憶がアイマイだ。

 かつて印象的な場面に出て来たお茶が、どうやら創作かもしれないということを知ってみると、何となく中途半端の宙ぶらりんな気分である。

 調べてみれば分かるのだろうが、今さらという感じもあるし、『三国志演義』自体も歴史というよりは、歴史をもとにした講談という趣もあったので、あまり食指が伸びない。

 というよりも、青少年時代に読みふけった物語の世界をそのままにしておきたいという気持ちもある。

 中国古典文学体系の本、特に怪異小説などの物語をよく読んでいた乱読の時代は、読むことが何にも代えがたい喜びであり幸福な時代だった。

 いずれにしても、お茶が誰にでも飲めるようになった現代は、非常に恵まれた時代といっていいだろう。

 コーヒーとお茶、どちらも日本人には必要不可欠な優れた飲み物であり、優劣をつけることは出来ないのである。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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