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枯葉と紅葉、ワルツの宴

 年末になると、自然の風景があらわになって来る。
 景色を覆っていた木々の葉が落ち始め、視界が広くなるからである。
 葉がさえぎっていた空や空間が見えてくると、それだけ今までの景色と落差を感じてしまうことがある。
 時にはそれがすっきりとした印象ともなったり、寒々しい感情を呼び起こしたりする。
 どちらにしても間違いではない。
 その印象の違いは、見る者の主観、ポジティブに考えるか、マイナスに考えるかによって分かれてくる。
 視界が広がってすっきりするのは、自分の中のもやもやとした気持ちが晴れ上がり、くよくよしていたことがバカらしく思えるからである。
 また、寒々しいと思うのは、木々がまとっていたものが無くなり、回りを守ってくれる者が無くなって天涯孤独さを実感するからである。
 どちらにしても、木々の感情ではなく、見る側の感情の投影であり、主観的な擬人化である。
 木々にとっては、葉を落すことは、老化や病気ではなく、冬の厳しい環境を超えるための準備であり、防御本能である。
 葉を落すことによって本体である木々を生かして、次の世代への準備をし、そして、よりよい種や成長を促すための期間でもあるだろう。
 木々はそのような春を迎えるための自然過程であっても、見る側の人間にとっては、自部自身の人生の成長過程の最終段階に重なって見えてしまう。
 自分もやがて、人類という大木から木の葉のように離れて枯葉となり、土に還って無という存在になっていく。
 そのような過程を思い浮かべてしまうのも、枯葉が老人のような姿と二重写しとなって感じているからだろう。
 だが、よくよく考えてみれば、葉というものは、太陽の光を浴びて光合成をして栄養を作り、本体である木々の成長を促すための機能を有している一部分である。
 木々の本体と一体化しているのは、自然の中で、それが一番、合理的であり、そして必要不可欠な要素だからである。
 葉の役割はそうした成長の部分的な役割分担を占めていて、その使命責任が終われば木々の本体から離れていく。
 もし、そうしなければ、葉に残っている水分や栄養分などによって、冬の厳しい寒さに襲われ、木々の本体の防御機能が弱体化して本体が倒れてしまう原因にもなる。
 木の葉は、本体から切り離されるという面からみれば、老化や衰弱などのイメージを喚起させるが、木の葉自体からみれば、自身の役割を果たし終えて満足してリタイアしているということになるだろう。
 けれども、人間の方は本体よりも、木の葉が落下するという現象にのみ、意識がいってしまう。
 髪の毛が老化とともに失っていくように、木々も老化していく、その表象が落葉というふうに思うわけである。
 しかし、木々は老化するというよりも、木の葉を落すことで、年輪を重ねていき、大木となって成長する過程を歩んでいる。
 本体は少しずつ太く大きくなっていく。
 そう考えれば、落葉と人間の老化を同一視したりするような擬人化は、正確ではないといっていいかもしれない。
 人間の肉体は、確かに枯葉が落ちていくように老化し、衰弱し、そして冬という終着駅である死に向かっていくように見える。
 だが、枯葉と人間の肉体は本質的にはやや違っているのではないか。
 肉体は枯葉のように皺になったり、衰えたり、病気になりやすくなったりするけれど、それは現象面での相似形であり、本質は異なっているのではないか。
 そのことを少しばかり考える。
 要するに、本質的な相似形は、枯葉と木々の本体の関係と擬人化するならば、肉体は枯葉であっても、木々の本体に当たるものがあるのではないだろうか。
 それは何か。
 そう考えれば、肉体は下降線をたどるのは自然過程ではあるけれど、それに反して成熟していくのは何か。
 木々の本体のような目に見えるものではないけれど、肉体に宿る精神、魂といったものがそれに当たると考えてはいけないだろうか。
 経験や年齢を重ねることによって、精神の成長が深まっていく。
 それはまさに木々が葉を落とすことで年輪を重ねるように精神、魂が成長し、知恵や慈悲、愛の精神が熟していくという気がする。
 もし、そうした考えが許されるとするならば、老いは人間の本体である魂の成熟と成長の一過程に過ぎないかもしれない。


 そんなことを枯葉の舞い散る舗道を歩いていると、思い浮かんでくる。
 妄想のようなものかもしれないが、そんなことを考えると、木々の紅葉と落葉が自然の美しいハーモニーと荘厳なシンフォニーにも思えてくるから不思議だ。
 特に、最近では、都会にある欅の並木道通りを歩んでいると、枯葉が舞い散る光景が美しい。
 そして、舗道には黄や茶色になった落葉が所々小山のようになっている。
 私は、その落葉の小山を意識的に踏んでみる。
 すると、子供時代のふるさとの光景が鮮やかに浮かんでくる。
 落葉というと、枯葉なので、踏むと乾いた音、パリパリと鳴ると思う。
 だが、実際にはふわりとした柔らかな絨毯のような感触。
 まだ落葉は水分が残っていて、枯れきってはいないのだ。
 これがもう少したつと、乾ききってパリパリとしたリズムを奏で、ワルツを踊る。
 ふわったとし感覚を楽しみながら歩き、ふと空を見上げると、少しばかりの雲が浮かんでいる。
 自然は変わらない。
 そう思っても、実際には物理的には変化している。
 同じ風景に見えて同じ風景ではない。
 来年は、果たしてどんな年になるだろうか。
 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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