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コーヒータイムのオンとオフ

サイフォンでコーヒーを淹れている様子

 コロナ禍でステイホームの巣ごもり生活になって、なかなかオンとオフの切り替えが難しい。

 そんな時には、気分転換に意識的にリラックスのためのコーヒータイムを設けるようにしている。

 コーヒーを飲みながら、とりとめのない時間を過ごす。それがリフレッシュのきっかけになって仕事がはかどったりするのだ。

 コーヒーは、その時の気分によってドリップ式にすることもあるが、基本的には手軽なインスタント、それも粉末状のコーヒー、砂糖とミルクが一体化したスティックタイプですませることが多い。

 それは、手軽で便利なこともあるが、私自身がコーヒーの味音痴というか、あまりこだわらないからである。

 だから、ドリップ式のコーヒーも気分によって、砂糖とミルクを入れたり入れなかったりして飲んでいる。

 そのスタイルは、喫茶店やカフェでも変わらない。

 まさに、コーヒー通からは邪道と思われてしまうが、持って生まれた性格?なので仕方がないと思っている。

 知人・友人にはコーヒー好きが多いので、見ていると、通を自認している人ほど、砂糖もミルクも入れないブラックコーヒーを好むようだ。

 それを見ていると、どこか洗練されていてかっこいいと思ってしまう自分がいるが、ブラックコーヒーを飲みたいという気はあまりしない。

 やはり苦いものが基本的に苦手という意識がある。

 ブラックコーヒーが大人の味と感じている背景には、甘いものを好むのは子供っぽいのではないかという心理的な思い込みがあるように思う。

 かつてコーヒー通の知人が、これから最上のコーヒーを飲ませてやるということで、茶道の作法ではないが、コーヒー豆をコリコリと挽くところから「おもてなし」を受けたことがある。

 コーヒーを豆から楽しむというプロセスが大事なようで、ゆっくりと豆を挽きながら蘊蓄を傾けていた至福の表情をしていたことを覚えている。

 その至高のコーヒーだが、結果論から言えば、私の想像を超えた濃い苦さで、炭のような液体を飲むような感じで、全部飲むことが出来ずにすぐにギブアップした。

 実際、飲んだコーヒーは胃のあたりでストライキを起こしたかのように、鈍痛を感じさせ、額からは脂汗が流れ、吐きそうな気持ち悪さが襲った。

 そのどろりとしたコーヒーを知人は実においしそうに飲み干していたので、驚いたことを覚えている。

 おそらく、コーヒーの苦さや濃さが、次第に物足りなくなって、徐々に濃度を濃くしていったのだろう。

 アル中ならぬコーヒー中毒だったのではないか、と思っている。

 それはさておき、仕事時間からの切り替えが「コーヒータイム」というのは、やはり眠気覚ましのカフェインの作用があるからだろう。

 もちろん、「コーヒータイム」と対をなす表現として、日本人には馴染みのお茶を飲む「ティータイム」という言い方もあるけれど、この方は仕事というよりも、プライベートのイメージがある。

 これはお茶が日本人にとっては、長年の習慣となっていて、特別感がなく、日常生活の感覚の延長にあるからだろう。

 お茶にも、コーヒーと同じようにカフェインが含まれているのだが、お茶で眠気覚ましをするという意識はあまりない。

 それはお茶のカフェインに耐性が出来ていて、コーヒーのような劇的な効果が薄いからではないか、と思っている。

 その意味では、日本人はお茶中毒になっていて、胃腸の方も、それに適応しているということかもしれない。

 確かに、お茶が日本に移植され、流行をみるようになったのは、仏教の禅宗の坐禅の時の眠気覚ましの効果を狙ったことも一因であったことがある。

 喫茶の効能を健康法などで説いた栄西も、禅宗の僧であったことを考えれば、この見方もあながち間違いはない。

 それだけ肉体の修行である坐禅は、眠たくなるものだったということである。

 それに比べると、コーヒーが日本にもたらされたのは18世紀末、オランダからと言われている。

 その点では、日本人にとっては比較的に新しい飲み物といっていいだろう。

 お茶が和食のイメージがあるのに対し、コーヒーは洋食のイメージで、ハイカラな飲み物という印象がある。

 幕末から明治時代という激動の近代化時代に、西洋文化を積極的に取り入れたが、その一つとしてコーヒーも重要な要素だったろう。

 その上、西洋ではコーヒーはサロン文化と結びつき、文化人などの集う場となっていたので、そのような文化にあこがれた知識人たちは、コーヒーを愛好することで、そのことを満足させた。

 かつて、大陸文化を移植していた古代の万葉時代の歌人たちが、先進文化のハイカラな花として中国渡来の梅の花を愛し、その元で歌の宴会を開いたことがあったが、コーヒー文化もそうした面を持っている。

 とはいえ、もはやコーヒーは外来の文化というよりも、日本の文化に溶け込み、当たり前の飲食文化となっているといえよう。

 コーヒータイムは私にとっても、書くことや本を読むことなどの生活スタイルの一部となっているが、問題は、スティックコーヒーの糖度が自分で選べないことである。

 スティックコーヒーは、砂糖もミルクも、決められた量が入っているので、その日の気分によってものすごく甘く感じたり、薄く感じたりする欠点がある。

 もちろん、糖度の目安となるマークがついているのだが、それが自分の舌にぴったりとしたと感じることが少ない。

 ないものねだりなのだが、頭脳労働をした時には甘味があった方がいいし、そのほかは甘くない方がいい。

 ならば、コーヒーと砂糖とミルクを別々に買って、スプーンの匙加減で調節したらいいと言われそうだが、それも面倒というか、そのスペースがあまりないので、インスタントのスティックコーヒーについ手が伸びてしまうのである。


 たかがコーヒー、されどコーヒー。

 コーヒーの世界も奥が深い。

 (フリーライター・福嶋由紀夫)

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