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『鬼滅の刃』と鬼、心霊現象のこと

 寄ると触ると話題になっているのが、大ヒットしているアニメ「鬼滅の刃」のこと。 

 それだけ大ヒットすれば、いやでもどんなものか、関心を持つ人もいる。 

 ふだんマンガやアニメには、無視を決め込んでいる高齢者の友人も、この波に乗り遅れてはならじと思ったのかどうか、息子や若者に触発されたのか、それはどうもよくわからないが、せめて話題についていけるようにと、マンガの第一巻ぐらいは読んでみようと、書店に行ったそうだ。 

 だが、どこの店でも二、三巻以降はあるものの、その第一巻が見当たらない。おそらく同じように考える人がいて、書店に殺到したせいかもしれない。 

 誰でも考えることは同じということだろう。 

 それほど社会現象と化しているアニメ「鬼滅の刃」だが、私は残念ながら関心はあるけれど読んでいない。 

 元々マンガやアニメ偏見があるわけではない。 

 むしろマンガ世代で、青少年時代はよくマンガを読んでいた。それが高じて、マニアックなマンガ雑誌「COM」やアニメ専門雑誌なども目を通していたほど好きな分野だったが、少しずつその世界から遠ざかってしまった。 

 とはいえ、「鬼滅の刃」が話題になり始めた頃、アニメになったのを見ようとしたことはある。 

 それこそプロローグともいえる第一話を見たのだが、最初の一家惨殺ともいうべきシーンで挫折してしまった。 

 血が苦手というか、注射自体も躊躇してしまうほどの性格なので、そうした残酷なシーンが出ると、つい目を背けてしまう。 

 そのために、「鬼滅の刃」と同じようにヒットした「進撃の巨人」も、ほとんど見ていない。 

 ほとんどというのは、見ようとはしてチャレンジしたことがあるからだ。 

 残酷なシーンが苦手なのだが、それはホラーや怪談、心霊現象などについても同じで、これらも敬遠している。 

 それは、これらにのめり込むと、その影響を受けてしまうということもある。 

 テレビなどでは、心霊スポットを紹介する番組が時々あるけれども、あれなども見ないようにしている。 

 眼に見えないけれども、必ず精神的に影響があると思っているからである。 

 よくよく考えてみれば、人気がある寺社やパワースポットなどに運勢を好転させる効果があるとすれば、その逆に心霊スポットもマイナスの効果があるというのは理論的な話だろう。 

 それはさておき、「鬼滅の刃」で鬼という存在に照明が当てられているが、この鬼については、民俗学的にはさまざまな説があって一定していない。 

 また、日本と中国などの概念でも、違っている。 

 基本的に、日本では鬼は実体として存在しているものだが、中国では死者のことを意味している場合が多い。 

 鬼についての考察は諸説あって難しいので、ここでは大雑把に考えてみたい。 

 日本における鬼は、一部の例外を除いて、実体であるということは、元々人間だったものが何らかの原因で鬼になったもの、あるいは自分たちとはちがう存在だった(外から来た未知の存在。敵)といったものということが考えられる。 

 もちろん、それ以外にも仏教などの影響もあるが(地獄の獄卒や仏教に敵対する存在)、ここでは人間がなぜ鬼になるのか、日本人とは異なる人を鬼として排斥するのか、といったことについて述べてみたい。 

 鬼の姿は基本的に、恐ろしい顔をし、頭に二本の角を生やしている姿で描かれている。 

 人間との違いをそうした形態の差異で表現しているのは、もともとは同じ姿をしている人間だったこと、それが変容して鬼という存在になったことを表している。 

 特に、鬼そのものではないが、鬼になった存在として嫉妬に狂った女性を般若としてお面になっているが、その恐ろしい顔は憎悪や怒りを象徴しているとみることができる。 

 憎悪や怒りは、その対象に対して愛着があるからで、それが裏切られたことによって、逆に相手を呪ったり殺意を抱いてしまう心理を、鬼という別物の存在になったことで表している。 

 鬼は愛情が憎悪と変った姿を示しているといっていい。 

 ということは、人間には常に鬼になる可能性をもった存在であること、善にも悪にもなるという要素を持っているということ。 

 そのような人間の持つ根源的な姿を鬼としているのである。 

 また、第二の点、自分たちとは違う存在に対する排斥的な心理から来るものとしては、島国であった日本に漂着する外国人をその容姿の違いから鬼として恐れ、時には退治しなければならない敵として認識していたことがある。 

 自分たちとは、違う存在と鬼として敵対視していたということ。 

 日本の各地に点在する鬼に関する伝承や民話、民俗芸能は、このような精神が反映している。 

 たとえば、秋田県などにある「ナマハゲ」などの民俗行事は、鬼が村を襲う脅威であるとともに、それが新しい文化習俗をもたらしてくれるという両義性を意味している。 

 おそらく海岸に漂着した外国人などの例が、時には村を襲う略奪者であったり、逆に村に新技術や文化などの恩恵をもたらしたという事実が背景にあるだろう。 

 そのような両義性があるために、怖い鬼であるけれど、それが子供の健康を祝福する存在という習俗に定着し、民間行事になった経緯があると考えられる。 

 また、それが桃太郎などの民話にある鬼退治という、異質な存在への排斥と退治という話に流れているのだろう。 

 このような害と恩恵という両義性をもった鬼という概念が、海に囲まれて独自に進化した日本列島に定住した日本人の根底にあるのかもしれない。 

 今、問題になっているヘイトスピーチ問題なども、たんなる差別問題というよりも、こうした島国に住む人間の特有の感情、自己と違うものを排斥するという心理があるといっていい。 

 評論家の山本七平氏は、このような矛盾した心理を「受容と排除」というキーワードで表現している。 

 今や国際化時代となった日本に求められているのは、自分と違うものを排斥するのではなく、また同化させようと無意識に強制することではない。 

 違ったものをそのまま肯定し、共に平和に共存共生するという精神を育てなければならないことである。 

 (フリーライター・福嶋由紀夫) 


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