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『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』 【番外編】


 

【番外編】

徳川家の菩提寺と歴代15代将軍

 芝(東京都港区)の増上寺は、徳川家の菩提寺として知られる。 1393(明徳4)年、酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人が創建した浄土宗の寺で、もともとは江戸貝塚(現、千代田区紀尾井町)にあった。家康の入府で徳川家の菩提寺となり、浄土宗の学制総録所として、僧侶3千人が修学に励む寺となった。現在の大殿や開基堂などは昭和、平成に大規模な復興がなされた。徳川将軍家墓所は大殿の裏手にある。6代将軍・家宣をはじめ現在6人の将軍と皇女和宮、各公の正室、側室、その子女の御所がU字型の墓園に広がる。墓碑は時代時代の流行の形態をとどめているが、いずれも規模が大きく、その前に立つと当時の栄華が偲ばれる。
 徳川家の菩提寺は、増上寺のほかに、上野の寛永寺、三河大樹寺(愛知県岡崎市)がある。家康が「徳川の位牌は三河大樹寺に祀るべし」といったように、本来の墓所は三河大樹寺であった。
 将軍の没年齢を以下に列挙する。

 

 15代の将軍の中で、最も長生きしたのは慶喜で77歳、最も短命だったのは家継8歳であった。寿命の長さと子供の数が健康のバロメーターといえるが、その尺度でみると、29人の子供をつくった家慶、77歳で死去した慶喜、75歳で逝った初代家康は体力壮健の人だった。

 

幕藩体制支えた林家の始祖、林羅山

 徳川幕藩体制は、儒教によって保たれた。その指南役が林家である。その始祖・林羅山は23歳のとき、京都の本法寺に宿泊していた朝鮮の高僧、松雲大師(四溟堂惟政)に会った。松雲大師は探賊師の任務を帯びた外交僧で、朝鮮との国交修復を請う家康の本意を確かめるために派遣された。このとき羅山は一介の町人で、ただ些か学問のある若者に過ぎなかった。
 そのときの問答が羅山の『韓客筆語』に載っている。松雲大師が羅山に、『論語』の言葉などをめぐって質問を発し、羅山がこれに答えた。問いは5回で短いやりとりである。最後に松雲大使が「君の朝夕心を用いる処、また如何」と問い、羅山が「余が工夫、唯だ主一無敵至って佳。君は年未だ而立(じりつ、30歳)に及ばざるに、頗る書を看るの眼有り。君の為に之を多とす」と褒め言葉を書いた。羅山の読書の質と量とについては、察知されたといえる。
 林羅山ほど、通信使の会った儒学者はいない。1636(寛永13)年=羅山54歳、1643(寛永20)年=61歳、1655(明暦元)年=73歳。以上のように、3回を数える。ただ、最初は構えたところが往々に見られた。

 

 「朝鮮国の三官使に寄す」という書簡を与えて、朝鮮国の事跡についての質問を7カ条出している。
① 
朝鮮開国の君である檀君が国を享けること1千余年というが、どうしてそのように長生なのか。また、中国歴代の史書に、朝鮮のことはよく出ているけれども、みな檀君のことを載せていないのは何故か。(朝鮮の口伝は)斉東の野人の語だからだろうか。
② 唐の太宗が高麗を伐ったとき、飛矢が目に当たったことの真偽は。これが中華の書に載っていないのは何故か。
③ 昔、鄭夢周という人が使で日本に来たことがあり、この人は性理の学を日本に伝え、忠義の気風のある人であったが、帰国の後、朝鮮ではこの人を殺したと聞くがどういう罪状で殺されたのか。なぜ殺したのか。おかしいではないか。
 このように、林羅山は通信使が応えにくい問いを糾した。朝鮮が文化的には日本よりは優位にあるという態度をとるのに対して、羅山は極力、対等の関係を求めた。通信使への書簡には、肩肘の張った感じがうかがえる。
 林羅山の朝鮮使臣との筆語については、細々とした朝鮮の文物制度に関わる問いが多く、批判の対象となった。これは羅山の知識欲のあり方を示しているのであろうが、将軍家光でさえ、羅山の問いを次のように批判している。

「朝鮮の使臣等来聘せし時、林道春信勝が、かの国人と筆語せしに、おほくかの国の事蹟、典章など徴訪せしを聞せられ、かかる事よりは、かしこにては治国の要はいかに心得、仁義忠信の理は何とわきまえたるなどと、とはまほしき事よと仰せられしとぞ」 (『武功雑記』(徳川実紀大猷院実紀附録所収より)

 林羅山と朝鮮使臣との交際には、初め寛永13 (1636)年のときは羅山に構えたところが随分と見られたが、次第に友好的なつきあいとなっていった。寛永13年、寛永20年、明暦元年の使節は、羅山に土産数品を贈っている。これに対して羅山も詩や文章で答礼し、また、朴安期に対しては単衣1領、葛衣1領を贈ることなどしている。

 

国学、ナショナリズムの台頭

 江戸後期、儒教は蘭学者の伝えた西洋の学問によって、その存在が揺らいでいた。儒学は道を説きたてるが、西洋の学問は事実を開示し、事実を探求することにあったからだ。国力が弱まるなか、国学はナショナリズムの風潮を通して、民衆を鼓舞した。わが国は、世界の中で生気を得た国であり、この点では支那(中国)にも優っている。人倫が正しく行われ、君臣の義においては世界万国に秀でている。神代の例を引きながら、わが国民を先天的に特殊の心理を有する特殊な民族と考えた。
 これに重ねるように、水戸学が国学的な風潮を後押しする。水戸学は、その中心思想として、①支那風の名分論にある、②それによって名義の上で皇室を本位とする幕府政治を是認、③支那風の華夷説を逆に適用して我が国を中心とする考え方、にあった。
 江戸後期、文に重きを置く考えのある一般の儒者とは趣きを異にしていた。水戸学の弘道館記には、「尊神道、繕武備」の語があり、建御雷神を祭ったのも、一つは武神の故あった。水戸派の思想には、「我が国=武国」ということが重きをなしていた。この時代、武士道を口にするものは、大抵は国学者風の国自慢を加味し、日本は武国であって日本が外国に優っているのはそこのありと説き、建国の精神を武に求めた。

 

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【転載】『朝鮮ブーム 街道をゆく ~大坂から江戸、日光へ~』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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