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『二十一世紀の朝鮮通信使』 福岡藩、城下でなく「相島」で接待II

◆福博の知識人が数多く渡海

1719(享保4)年8月、相島に上陸した通信使の製述官、申維翰は、『海游録』のなかで島の印象を次のように述べている。
「藍島は、筑前州に属する。上には青山があって三面をとりまくこと半月の如く、そのまん中は広くゆったりと水をたたえ、民田と屋舎は俯して海に臨む。海の外には遥かなる山が弯曲して控えること百里ばかり。その間に平湖、円鏡を作る。草木や雲烟はすべて爽朗にして幽楚。観る者はたちまちにして恍然として我を忘れる。すなわち、余が航海して以来、初めて見る神仙境である。
新築した館舎は千間に近く、帳御(帷帳と服御)諸物がすべて華美である。日の供せられる厨盤(ご馳走)は、壱岐よりもさらに倍する。余の館は、西隅にあり、はなはだ瀟洒、西山の爽気を満喫することができた」

そのような島に、福岡の城下から多数の藩士や関係する職人が派遣された。朝鮮の先進文化に触れようと、櫛田琴山、古野梅峰、小野玄林、亀井南冥、竹田春庵、井上周道といった儒学者、医師らが島に渡って、筆談した。彼らの質問は、朝鮮儒学、李退溪とその弟子、陶山書院、朝鮮医学、朝鮮の風俗や農具、中国事情など多岐に及んだ。彼らの旺盛な好奇心や知識欲には驚かされる。通信使の三使も、その思いを強くした。漢詩文に秀でた才能の文官から、自分の漢詩文を評価してもらうこと、さらには漢詩文の唱和は名誉なことであった。なかでも、亀井南冥は、大坂時代に編んだ『東遊録』を持参して披露したが、それを使節の高官は高く評価した。
金仁謙は、亀井南冥について、次のように評価している。
「亀井善が手紙と共に 詩集二巻を送ってくる 初めは馴染まなかったが 次第に面白く 思えてきた 楊柳詞と胡筋曲は 傑作といえそうだ」 こう高く評価した金仁謙や使節三使は、亀井南冥の才能を三都で喧伝したもので、南冥

「亀井魯が手紙と共に 詩集二巻を送ってくる 初めは馴染まなかったが 次第に面白く思えてきた 楊柳詞と胡笳曲は 傑作といえそうだ」
こう高く評価した金仁謙や使節三使は、亀井南冥の才能を三都で喧伝したもので、南冥の名前は広く知られるようになった。


◆沿道住民の負担は重く

朝鮮通信使を迎えるため、幕府は年間予算を超える100万両を充当した。 接待をする沿道の各藩で、10万石以下の藩には助成金を出した。10万石以上の藩は自前で供応に当たった。
通信使は異文化に接触できる江戸時代最大の外交イベントで、京都や江戸の版元は使節が来る前から一行の名前、人となりを紹介した冊子をつくって売った。使節が行く沿道には、人垣が出来た。異国の風俗、音楽、舞踊を、縁日を楽しむかのように民衆は鑑賞した。

1682(天和2)年の第7次の通信使を迎えるため、相島では二つの波止場を構築した。
小さな島、人口も少なかったなか、男性が労役に借り出される。波止場を完成するまでに2カ月を要し、延べ3,850人が投入された。完成した波止場のうち、通信使一行が上陸した先波止は長さ47メートル、幅5メートル、高さ3.6メートルで、対馬藩主や随行員が上陸した前波止(現在、町営渡船の船着場)は長さ27メートル、幅3.9メートル、高さ3.3メートルだった。現在もその名残を見ることができるが、島民の血のにじむような努力の末に完成したことは言うまでもない。
朝鮮通信使を迎えるため、沿道の各藩は1年前から準備した。52万石の福岡藩は、本土で初めて迎える雄藩であるため、幕府の権威を汚さぬよう、もてなしに全力を注いだ。正使、副使、従事官の三使の客館、対馬藩主、以酊庵(いていあん)の僧侶、朝鮮語通詞などの館をつくったが、そのために派遣された藩士、職人たちで島は芋を洗うが如き状況だった。客館の作り方や、饗応の仕方など、対馬藩から細かい指示が出された。すべてに対して慣例があり、日本側も朝鮮側も、それにこだわった。沿道の各藩担当者は、泣かされたことと思う。

1764(明和元)年、相島の接待には福岡藩の役人600人が出向き、船485 艘、約3,000人の加子が動員された。藩主は江戸参勤のため城下を離れて上京中ながらも、出発前に通信使接待について詳細な指示が出ていた。島での供応はもとより、使節への贈り物にも心を砕いた。
将軍から、通信使をもてなす料理ではどこが優れていたか、尋ねられた対馬藩主は、「安芸蒲刈が御馳走一番」と答えたことから、下蒲刈島(現、広島県呉市)が知られているが、相島の饗応料理(七五三鷹、三汁十五菜)もそれに負けない豪華なものだった。朝鮮人が何を好むか事前に調査して、献立を作った。

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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