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『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』 (14) 密陽


 密陽(ミリャン)アリランフェスティバルが、毎年5月10日前後に開催されている。韓国三大アリランの一つ、密陽アリランを堪能できる祭りである。川沿いに立つ嶺南楼の近くに東軒という朝鮮王朝時代の役所跡がある。嶺南楼のすぐそばに密陽アリランの歌碑も立つし、その上に向かって階段を登ると、松雲大師(ソンウンテサ、1544~1610。四冥堂惟政=サミョンダンユジョン) の銅像がそびえている。見上げるばかりに大きな銅像であった。密陽出身の松雲大師である。
 郊外には、松雲大師が修行した表忠寺(ピョチュンサ)がある。松雲大師は、秀吉軍との戦いで、義僧兵の総指揮官を務めた。講和交渉にも一役買った。徳川家康が通信使派遣を要請したときには、探賊僧として、対馬を経て京都まで行っている。

 日本から帰国して釜山に到着した朝鮮通信使。彼らがたどる釜山から都・漢城に向かう「上行路」は、漢陽から釜山に向かう「下行路」のように固定していなかった。「通信使が戻るときは、三使(正使、副使、従事官)が道を別にする」という記録がある。つまり、三つのルートに分かれて、漢城の王宮に向かった。
それによると、
▼正使は真ん中の路をたどって大邱を経て尚州に向かう(1764年の場合、梁山、密陽、大邱を経て、鳥嶺を越えた)。
▼副使は右側の路を通って慶州に向かう。(蔚山、慶州、豊基を経て竹山嶺を越える)
▼ 従事官は左側の路をとって金海へと向かった。(金海、昌原、星州を経て秋風嶺に向かう)

密陽は中路に位置し、通信使のトップである正使が、都に向かって北上した道であった。

◎申維輪、密陽に生家跡

 1719(享保4)年、朝鮮通信使の製述官として来日した申維翰(シンユハン)は、名作として評判の高い日本使行録『海游録(ヘユロク)』を残している。申維翰は1681年生まれ、没年は不詳。号を青泉といった。 
 慶尚北道高霊の人で、1713(粛宗39)年に科挙試験の文科(内科)に及第した。彼は詩文を能くし、文集として『青泉集』などがある。役にしての官は、従4品の奉尚寺どまりだった。奉尚寺は国家の祭祀や諡号を管掌する官庁であった。彼は官職に恵まれなかった。それは彼が庶子出身(妾子)であったからだ。
 朝鮮王朝時代、同じ両班(ヤンバン)の子弟であっても、嫡庶間の差別がきびしく、庶子出身は、ほとんど科挙試験に応募することさえ許されなかった。一時期それが許され、それに申維翰は応試した。しかし、その官品は厳しく制限されていた。『海遊録』にも一身上の不遇を嘆くところが散在している。

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 韓国の道をゆく』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

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