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『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』 (2)壱岐―勝本で松浦藩が接待


 玄界灘に浮かぶ壱岐。勝本港は北の玄関口で、風本浦ともいわれる。秀吉の朝鮮出兵の折、築かれた城壁に立ち、勝本港を眺める。港の前方に横たわる島が、屏風のように風を防いでいるように映る。丁度、風もなく穏やかな海。しかし、玄界灘は時折、牙をむく。この海域を甘く見ると、大変な目に遭う。
 通信使船は6隻。うち3隻に通信使一行が乗船する。300人から500人。入港時には、港周辺に人垣ができ、遊女も崖の上で、声をかけた。遊女のみだらな姿に、通信使は驚いたらしい。宿泊先は寺や民家。港から歩いて近い。勝本には平地が少なく、崖を背に東西に広がっている感じである。上陸時には祝砲をあげ、行列を組んで、宿泊先まで練り歩く。一行を迎える松浦藩は、連日連夜、厚いもてなしに追われた。「肥前の奉行と裁判が杉重を持ってくる」。杉重は、すきやきのような料理である。釜山の草梁倭館で、最も人気のある料理である。

 勝本のまちを歩いても、通信使の歴史を知る手がかりが皆無に等しい。司馬遼太郎の『街道をゆく 壱岐・対馬の道』(朝日文庫)に、「江戸時を通じて一貫して通信使の迎接所になっていた神宮寺ぐらいのものであった」という記述がある。しかし、いまは廃寺である。当時のにぎわいを伝える史跡がほとんどない。
 壱岐を発った朝鮮通信使は、風と潮の関係で、往路は相島に行くことが出来ず、名護屋に立ち寄り、復路は赤間関(下関)から名護屋を経由して相島に向かった。そのような例が往・復路あわせて22回中に、3回あった。
 ①1607(慶長12)年、第1次使節の復路
 ※正使=呂祐吉、総人員504、名目=修好・回答兼刷還
 ②1617(元和3)年、第2次使節の復路
 ※正使=呉允兼、総人員=428、名目=大坂平定・回答兼刷還
 ③1643(寛永20)年、第5次使節の往路
 ※正使=尹順之、総人員=462、名目=家綱誕生

【ユネスコ世界の記憶】
・朝鮮通信使迎接所絵図(土肥家文書)=所蔵:土肥純子

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【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)


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