記事一覧

『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』 はじめに

 「21世紀の朝鮮通信使」シリーズ第3弾は、対馬から大坂までの海路(西日本篇)である。釜山港から大坂・天保山沖までの航海。途中、寄港した玄界灘の島々、瀬戸内海の港町で、いかに熱い歓迎、厚いもてなしを受けたか知ってほしい。
 いうまでもなく通信使往来には、日朝に思惑があった。「文」の国・朝鮮王朝は儒学思想で、野蛮な「国」日本を教え導きたい思惑を抱く。徳川幕府は天下統一後、支配体制強化に利用したいという思惑があった。その両国の思惑も、通信使を熱烈歓迎する日本の民衆によって、見事なまでに払われた。元祖韓流といえるブームである

 釜山の永嘉台で、航海の無事を祈る海神祭を行った朝鮮通信使一行は6艘の大型船に乗船し、対馬藩の船に導かれて日本へと旅立つ。1年前後にわたる長旅。航海に慣れていなかった朝鮮人には心身ともに疲労が伴う道中であった。対馬藩主がいる府中・厳原に着くまでが、まず難儀であり、20日以上を要している。厳原で、対馬藩主のもてなしを受け、玄界灘の島、壱岐、相島を経て、赤間関(下関)へと船旅が続く。風雨、波浪に行く手を阻まれながらも乗り切り、瀬戸内海に入る。
 玄界灘に比べ、瀬戸内の海は穏やかで、航海者の気持ちも安らぐ、という印象をもっていたが、実際は違うようだ。瀬戸内海は島が多く、潮流も複雑である。海の状況と地形を知らない者は、安全な航海ができない危険な難所である。さらに、古くは海賊がいた。
 しかし、隣国の外交使節を迎える沿道諸藩は、幕府の威信を汚さないよう、厳戒態勢を組んで、通信使船を護衛・案内していく。道中の眺めはよく、「日東第一形勝」と称えられた鞆の浦・福禅寺対潮楼(広島県福山市)の絶景もある。

 鞆の浦について、1719年(第9次)の通信使製述官・申維翰(シンユハン)が著した『海游録』に次のようにある。
 「瓦葺きの屋根や市肆が簇々として寸隙なく、見物の男女は、錦衣を着て、東西に満ちあふれている。そのなかには、商客、倡娥(あそびめ)、富人の茶屋も多く、各州からきた使官が往来し、住舎も繁華にして目に溢れるばかり。これまた赤間関以東の一都市である」

 西国大名は、接待を競った。通信使一行の嗜好品の調達に涙ぐましい努力を行った。通信使の日本使行録「東槎録」には、下蒲刈島の話として、こうある。朝鮮人の好む食べ物が雉(きじ)であるという情報がもたらされたのは、到着1カ月前。国賓である通信使を接待するため、 広島藩は背に腹はかえられず、雑1羽に3両もかけて調達した、と。
 通信使は、日朝を結ぶ平和の懸け橋となったが、それがために派遣された一行は大変な緊張と労苦を強いられた。儒教の国である。教養と威厳を求められた。朝鮮国王もまずは、それを要請した。これらに、立派に応えた使節であったことは、来日の度に朝鮮ブームを起こしたことで証明されている。

 近年、釜山と大阪を結ぶ定期航路がある。「パンスターフェリー」である。午後3時に釜山港を出発し、翌朝10時、大阪南港に着く。所要時間18時間50分。その航路の魅力は瀬戸内海をたどることにある。巨大橋を3つ潜り抜ける景色もいいが、室町から江戸時代にかけて、大坂・天保山沖に向かった朝鮮通信使の瀬戸内海コースを体感できる面白さがある。

←前のページはこちら               次のページはこちら

【転載】『二十一世紀の朝鮮通信使 海路をゆく 対馬から大坂』(朝鮮通信使と共に 福岡の会 編)

関連記事

コメント